柴田の死に至る病、『大白道』、危機一髪だった『宇宙について』

柴田純子

  20081029日午前1時半。昨日入院したJ大病院は寝静まっていて、広い廊下だけが明るい。私のいる耳鼻咽喉科の6人部屋は19階で、廊下のつきあたりのガラス窓のむこうに高層ビル群の無数の灯が輝いている。一月ほど前、甲状腺に腫瘍があることがわかって、CTスキャンや超音波の写真を何枚も撮ったあげく、J大病院で手術を受けることになった。たまたま見つかったので、自覚症状は全くない。自覚症状といえば、数年来悩まされている欝病の方は、少々悪くなると何もかも嫌になり、郵便物を手に取ることさえできなくなるので、すぐにわかる。

 12年前の22日の夜、夫柴田南雄はS字結腸癌とその肝臓転移のために世を去った。その2年前に、自宅からさほど遠くないO病院で腸の癌を切除したが、術後、「これが癌ですよ」と見せられたものは色といい形といい「異物」としか言えない代物で、腸管をほとんど塞いでいた。
「リンパ腺を全部とると身体が弱るので、ある程度残しました。そこから転移が起きるかもしれません」という
M副院長の言葉に不安を覚えたものの、さしあたり手術が成功したという喜びの方が大きかった。


しかし癌は休みなく柴田の身体を蝕み、1995年に初演すべくサントリー音楽財団から委嘱された作品に取りかかることができなかった。そこで柴田の新作に代って高橋悠治さんの『音楽の教え』が初演され、柴田作品は2年後に延ばされた。月に一度、検査のために病院に通いながら、柴田はやりかけの仕事の仕上げに専念した。

 19951012日に、北九州市立響ホールで「連句からプラトンに至る柴田南雄50年の軌跡」と題するコンサートが催された。響ホール音楽監督の数住岸子さんの企画だった。高橋悠治独奏の『ピアノのための変奏曲』、吉村七重が奏でる二十弦筝の『七段遠音』、数住岸子のヴァイオリンと高橋悠治のピアノによる『歌仙一巻 狂句こがらしの』、カウンターテナー谷篤と柴田雄康のリコーダーで『パイドロス―はばたくエロス』という豪華プログラムで、ひとつひとつがすばらしい演奏だった。

帰りがけ、京都のアトリエに数日滞在する予定だったが、柴田は背中の激痛に耐えかねて個室寝台で東京にもどり、そのまま書斎で寝込んでしまった。当人はいつものギックリ腰だと主張していたが、病院の定期検査に行かれぬままに一月が過ぎ、業を煮やした私が入院するつもりで検査に行きましょうとせっつくと、ようやく出かける気になった。128日のことだった。

主治医のM先生は難しい表情で柴田を診察し、すぐ入院するようにと言われた。翌日先生に呼び出された私は、癌が肝臓に転移しており、最悪の場合は年内の命と告げられた。

O病院は私たちの住む大岡山から東急線で2駅目の奥沢駅前にあり、我が家の家庭医として長年のおつきあいがあるW先生が紹介してくださった。私たちは何かとW先生を頼りにしていたから、柴田も特に大学病院などに伝手を求めず、2年前の手術もO病院で受けた。噂によるとO病院の先代の院長は手術の名手で、盲腸を切除するのに5分とかからなかったそうだ。

12月半ばから私も病室に泊まりこむことにした。完全看護が建前だが小さい病院であるためか融通が利き、看護師さんがすぐに折りたたみベッドと毛布を運んでくれた。私は柴田が息を引き取るまで、二月近く家に帰らなかった。

入院して四、五日すると柴田はいくらか元気になった。連日連夜の点滴のおかげかもしれない。1992年に東京トロイカ合唱団に委嘱された合唱組曲は、毎年1曲ずつ作曲したあと、この年に完成させるつもりで第5曲まで終わっていた。

終曲のテキストを何にするかは難しい問題だ。テキストひとつで作品全体の意味が変わってしまうことがある。私はずっと前から終曲にふさわしい詩を探していたが、どうしても見つからないので、京都に行ったついでに府立資料館に寄ってみた。戦災に遭わなかった京都では思いもかけぬ文献・資料に出会うことがある。『深山祖谷山』(no.1151993)のテキストに使った『祖谷山日記』もそこで見つけた。

府立資料館のもう一つの利点は開架本が多いことである。いつものように何人かの詩人の詩集を漁って閲覧用の机に積み上げる。その中に限定版の草野心平全集があり、「大白道(だいびゃくどう)」がのっていた。私は草野心平の詩が好きで詩集を何冊か持っていたが、「大白道」を読んだことはなかったし題名さえ知らなかった。それは昭和19年に発表されるや否や発禁になった反戦詩で、心平はそれを『亜細亜』創刊号にのせたのである。

昭和19年には私は10歳の軍国少女だった。疎開先の長野県岡谷市で午前4時に新聞店に集まり、召集された男たちの代りに『信濃毎日新聞』を配達した。登校すると授業は午前中だけで、午後は開墾、草刈、木曳きなどの作業だった。塩尻峠を越えて山奥に「炭背負い」に行ったこともある。花の咲き乱れる山道を歩いた往きには、帰りに花を摘んで帰ろうと思ったが、背負子に縛り付けた4貫俵を3人交替でかつぐ帰り道では、花も景色も全く目に入らなかった。
「日本が負けるんだって」という噂が伝わった814日に、私たちは憤慨して「そんな筈はない、明日の新聞を見ればわかる」と口々に言ったものだ。ところが「明日の新聞」が来てみると「かしこくも終戦の断をくだしたまふ」という意味不明の横組み大見出しが第一面にあって、日本が負けたともアメリカが勝ったとも書いてない。だまされたと思いながら新聞を配り、正午になってようやく、雑音に埋もれた昭和天皇の放送で私たちは敗戦を知った。

軍国少年少女だった私たちの世代に懐疑論者が多いのは、終戦の日の裏切られた思いと、その後配布された墨塗り教科書のせいだと、今でも私は信じている。子供たちが大東亜共栄圏の輝かしい未来を信じていたとき、草野心平は「無数の日本の将兵たちが声も無く天の大白道を歩いていく」のを見たのだ。詩人は見るべきものを見、身の危険も顧みずそれを発表した。「終戦」から50年、私は人けのない閲覧室で「大白道」のページを開いたまま、長い間坐っていた。

『無限曠野』は、戦地から帰れなかった人々へのレクイエムである。1992年にこの曲を委嘱されたA氏はロシア料理店を経営しておられるが、シベリア送りの汽車から飛び降りて九死に一生を得たという経験をお持ちだ。ロシア語が堪能なご子息とともにロシア音楽を原語で歌う「東京トロイカ合唱団」のオーナーである。

そろそろ日本人の曲を歌いたいというご希望で、柴田がその年に作曲した『みなまた』の話をすると、二三日してテーマをシベリア抑留にしたいという手紙とともに、辺見じゅん著『ラ−ゲリからの遺書』が届いた。

その中から、アムール収容所で句会を主宰し、帰国寸前に亡くなった山本幡男の詩「裸木」を選んで作品の中核とした。全6曲の前半はロシアの、後半は日本のテキストである。

「大白道」を一読して、私は「これだ!」と思った。しかし一方、終曲として重すぎるのではないかという危惧も残った。そこで、より穏やかな、シベリアの広大な大地を示唆するような詩を二つ選び、終曲の歌詞候補として柴田に渡した。

柴田は即座に「大白道」をとりあげ、「これにしよう」と言った。日ごろ柴田が反戦的な言動を見せることがなかっただけに私はその即断を意外に思ったが、詩の持つ力は「大白道」が群を抜いている。柴田は早速作曲にかかり、半ば近くまで進んだところで入院する羽目になった。

私が病院に泊まりこむことにしたとき、柴田は「作曲ノートを持ってきてくれ。気分の良いときに仕上げてしまおう」と言った。それ以来、作曲ノートと詩のコピーは病室の引き出しにしまってあった。

翌日から、柴田は仰臥したまま作曲ノートに続きを書いた。そして「ああ!突如!」の行までくると、「これでいい、あとはシュプレヒ・シュティンメ(歌わずに語ること)にするから、言葉のリズム譜を作ってくれ」と言った。

病人が食事に使う高めの台がベッドの足元にあったので、私はそこに五線紙を広げ、立って清書を始めた。「具合はいかがですか?」とM先生が入ってこられ、清書を見ると「それは何の曲ですか?いつ演奏されるんですか?」と診察はそっちのけで矢継早に質問された。M先生は学生時代には合唱に熱中しておられたそうで、柴田の作品もいくつかご存知だった。時には「今はあまりに忙しくて、歌うことも聴きに行くこともできないんですよ」と嘆かれた。

主治医がこのような先生だったのは、望外の幸福としか言いようがない。できあがった清書に強弱の記号を書き込み、『無限曠野』は大晦日に完成した。最後に柴田はひとこと「ああ疲れた」と呟いた。作曲ノートの末尾には13日の日付で、指揮者と合唱団に向けたメモが残されている。

指揮者と合唱団へのメッセージ―――終曲「大白道」について

1.      「大白道(ダイビャクドウ)」は昭和197月、『亜細亜』創刊号に発表された。詩人は、ふたたび祖国に帰ることのない兵士たちの行進を「無限の天」に幻視する。そこには戦争の本質が余すところなく示されている。

2.      11小節からの女声の旋律部分は、一部が歌い、一部は朗読する。

3.      13,15,16小節のカッコ内の語は、いわゆる差別語の禁則に触れる恐れがあるので、発音しない。しかし、そこは正確な休符とし、伏字があることをメッセージとして伝えたい。後半Tuttiにも同様の一ヶ所がある。なお、歌詞組みでは、この文字は伏字(×または空白)とする。

4.      5曲「小垣内の(オカキツノ)」の女性合唱がステージ上に整列して歌われるのに対して、この終曲では合唱団は各自思い思いの姿勢をとり、戦いの空しさへの怒りを表現せねばならない。男声は、はじめ各自ばらばらの歩調を小さく刻む。自分の周囲を、あまり遠くに行かずに歩き廻ってもよい。女声は、少しうつむくなどして、また聴衆の誰かを目標に歌い進む。Tuttiでは、各自ステージの前端ににじり寄り、目当ての聴衆の一人に、草野心平のメッセージを確実に伝達するように心掛けられたい。

Tuttiの後半から曲尾にかけては、さまざまな演出方法が考えられる。

                         (柴田.Jan.3.’96. Okusawa)

柴田が私に「どうしよう」と言ってくるのは、作品の基礎概念、使うべき資料とその構成などについて自分の考えが決まらない時であった。ただ一度だけ、ここの音楽をどうしたらよいかと訊ねられたことがある。それは芥川龍之介原作の合唱劇『往生絵巻』で、主役の「五位の入道」が最後に唱える念仏にどのような音楽をつけたらいいだろうか、ということだった。「五位の入道」は、西方浄土を目指してひたすら念仏を唱え続け、海辺の松の樹にのぼって大往生をとげる。劇中の念仏は「阿弥陀仏よや。おおい。おおい」とのんびりした旋律で歌われるのだが、往生するときの念仏も同じ旋律でよいだろうかというのである。

私はとっさに「四六の平行和音はどうかしら。まちがいなく極楽往生できるでしょうよ」と答えた。私はその頃、上智の大学院で池上嘉彦先生の「物語の構造分析」の授業に出ていて、日本の民話と西洋の民話の構造の相違を説明するのに、五度と四度の関係(五度は転回すると四度になり、四度は転回すると五度になる)が使えないかと四苦八苦しており、三五の和音に解決しない四六の和音の連続は日本的な特質を示すのではないかと感じていたので、冗談半分にそう言ったのである。

柴田は「四六の平行和音か」と言ったきり書斎に上がっていき、私は台所仕事にもどった。夕食の支度に忙しかったので私はその問答のことは忘れてしまった。それで柴田が夕食に下りてきた時にも「どうしました」と訊きもしなかった。

ただ、柴田が「作曲職人たるもの、四六と言われれば四六で、平行和音と言われれば平行和音でできるのは当たり前だ」と呟いたので、なんとか解決したらしいことはわかった。後に初演を聴きにいくと、問題の箇所はたしかに四六の平行和音で書かれていたが、女声のグリッサンドの上行音型がそれに絡まっていて、まさに昇天そのものだった。私は「やはり餅は餅屋だ」とひそかに感心した。

私も一回だけ音楽に注文をつけたことがある。児童合唱のためのシアターピース『銀河街道』ではスペイン各地の民謡を使った。どの民謡も単旋律で、ただ重なり合うときに偶発的なハーモニーをかもし出す。しかしレオン地方の「ビエルソの歌」だけは、あまりに美しいメロディーなので偶発的でないハーモニーがほしかった。柴田は「おやすい御用だ」といい、「ビエルソの歌」は大航海時代の恋人たちにふさわしい、大らかな響きの曲になった。

      海原越えて燕がゆく。

      ほら、きみに贈るぼくの言葉持ってゆくよ。

      遠く離れても、きみを思っている、

      バラの蕾より美しいきみを。

      神のめぐみで、ぼくが帰る日に

      ふたりで作ろう、愛のすみかを。

 年を越すまで、私は柴田の入院や病状を誰にも知らせなかった。しかし、時は容赦なく迫ってくる。

まずサントリー音楽財団と東京コンサーツに連絡して、二度の延引の末に委嘱を辞退せざるを得なくなったことを詫びた。吉田秀和先生には、家族で柴田の死を見守りたいという手紙を書いた。田中信昭さんと香さんが来てくださった時には、すでに意識が遠のきかけていたのかもしれない。会話は途切れがちだった。

それから毎日のように、大勢の方々が柴田に会いにきてくださった.。高橋悠治さんは三回現われた。のちに週刊オン・ステージ新聞の弔辞に書いてくれたように、この二人は40年を越えるつきあいだった。

 一月の半ばから、昼夜をわかたず低血糖による失神がはじまった。「インシュリンが.糖を無制限に消費してしまうのです」とM副院長は言われた。どういうことかよくわからなかったが、この現象がおきる直前に柴田は何らかの気配を示すので、すぐナースコールを押す。駆けつけた看護師さんが血糖値を計ると恐ろしいほど低い。

巨大な注射器を捧げもった二番手が登場し、ブドウ糖液の約半分が血管に注ぎ込まれると、柴田は目を開けて「なんだ、又やったのか」と苦笑するのだった。まもなく背中の痛みが激しくなり(硬化した肝臓が押しているからとのこと)、「痛みを感じるために昏睡から呼び戻すのは残酷だ」というM先生の意見で、ブドウ糖の補給は中止になった。

 それでも常に昏睡状態というわけではなく、意識がある時はふつうに話ができた。死期が近づいていることは感じなかったらしく、「退院したら屋上に小部屋を建てて、富士山を見ながらヒルネをしよう」と口癖のように言った。

柴田には「肝臓膿瘍」という病名が告げられ、M先生は「肝臓は長くかかるから焦らないで」と時折さとされた。「肝臓膿瘍」が口実であることはわかっていたが、それでも私はぞっとした。昭和13年、艦政本部に勤務していた父が激務の末、手遅れの盲腸炎から肝臓膿瘍になって37年の生涯を閉じたからである。

父はずっと腹痛を我慢していて、開腹したときには腹膜に膿が溢れていたそうだ。28歳の母は、6歳、4歳(私)、2歳の3児を抱えて未亡人になった。海軍機関学校31期のクラスヘッドでグラスゴー大学帰りの父を見込んで長女を嫁がせた祖父は、葬儀のあいだ人目もかまわず号泣していたということだ。

 柴田の昏睡は2週間つづいた。舅と姑が先立っていたことが本当に有難かった。1979年にやはり癌で胃の五分の三を切除したとき、38日間の入院を両親に隠す苦労は並大抵ではなかった。いっそ真実を明かすほうがよいかと迷いもしたが、両親の年齢を考えるとショックが大きすぎることは明らかだった。日にちの観念があいまいになっている姑はともかく、97歳の舅は柴田に入浴の介助をしてもらうのを楽しみにしていたのでごまかしようがない。旅行だとか仕事が忙しいという言い訳はじきに種切れになった。

2週間たって、「今日は私がお風呂のお手伝いをしましょうか」となるべく何気ないように言ってみたら、舅は「そうだな、お願いしようか」と答えて服を脱ぎはじめた。それからは、入浴するのに私の手を借りるのをいやがらなくなった。 

 入院する前の年、柴田は田中信昭氏を通して関東六大学合唱連盟が定期演奏会に演奏する合同曲を委嘱されていた。「美しく歌うだけでなく、歌うことで何かを学ぶような音楽を作れないものか」と、ある日柴田は珍しく真剣な表情でいった。

私はその頃、スペイン語狂いが嵩じて清泉女子大西語西文科に学士入学し、島津山の美しいキャンパスで二度目の大学生活を満喫していた。入学式の日には「保護者のお席はあちらです」と注意されたものだ。清泉女子大図書館のキリスト教関係・スペイン文学関係の蔵書は膨大なもので、私は時間があると図書館にもぐりこんで図書カードを調べたりコピーをとったりしていた。

 たまたまその日の昼休みに、「すぴりつある修業」を読んで非常な感銘を受けていたので、「すぴりつある修業」のやり方ならできるかもしれない、と私は答えた。「すぴりつある修業」はキリシタン時代、神学生を教育するためにイグナシウス・ロヨラが書いたといわれる手引書で、現在では「霊操」というタイトルで出版されている。キリストの受難を知識として学ぶのでなく、追体験によって教えの深奥に達する方法だ。

 柴田は乗り気になった。隠れキリシタンの祈りの歌である「おらしょ」を素材の中心とすることは、田中さんとも合意ずみだった。二人は生月島に取材に行き、多量のカセット録音を持ち帰った。柴田はまず三つの創造神話を選んで、異なる様式で作曲した。インドの神話は中世末期の多声音楽の様式、日本書紀のは無調、旧約聖書創世記第2章第4節は西欧の古典・ロマン派様式である。第四章はニコラウス・クザーヌスの「知ある無知」を、ラテン語と日本語訳でテキストとした。

四谷の雙葉高校の生徒だったころ、週に一回「教え(カトリック倫理)」の時間があったが、私のクラスは高峰信子校長が直々に受け持たれた。このクラスはたいへん「悪くて」他のシスター方の手に負えなかったからである。おかげで私たちはありきたりの教理問答でなく、「神の存在」を証明しようとしたさまざまな神学者について学ぶことになった。ニコラウス・クザーヌスもその一人で、「知ある無知」、「反対の一致」のような一見矛盾した論法に接し、さらに彼が東方の諸侯や司教に随行してコンスタンティノーブル、フィレンツェ、フェララに旅したことを知って興味をそそられた。

『宇宙について』では、クザーヌスのテキストはキリスト教の覇権の確立と瓦解を象徴する。ルネッサンス様式の音楽ははじめは堂々としているが、次第に抗議の叫び声や湧き起こる隠れキリシタンのおらっしゃに呑み込まれてしまう。

柴田が入院したとき、作曲は第四章までできていた。あとは、小泉文夫氏が世界各地で収録されたキリスト教音楽のテープをお借りして素材を作り、隠れキリシタンのオラショを採譜するだけだった。

私は田中信昭氏に柴田が胃癌であることを話した。「楽譜さえあれば、あとは私が何とかします」という言葉に励まされて素材の選択と採譜を進め、病院に持っていって柴田にチェックしてもらった。諸国のキリスト教音楽には古今東西の哲学者の宇宙論による歌詞をつけたが、それには清泉女子大の高橋亘先生の古代・中世思想史のノートが大変役立った。

1979412日、入院38日めに退院。演奏会の417日、トランスに陥った学生たちが歌う「しばた山」を聴きながら、私は危機が去ったことを心から感謝した。

『宇宙について』は「大学生のための合唱演習T」となり、『歌垣』(no.77.1983) 『人間と死』(no.861985)『自然について』(no.911987)がそれに続く。

シアターピース作品の基礎概念と全体の構成を考え、歌詞を選択するのは私の仕事になった。私は抜け目なく、好みの詩や文章をこれらの作品に持ちこんだ。たとえば『人間と死』にはリルケの「マルテの手記」があり、宮澤賢治の「青森挽歌」があり、梁塵秘抄口伝集巻十の、今様の師であった乙前の命日に後白河法皇が「経よりも歌を」と考えて、乙前に習った今様のすべてを歌うと、死者がほれぼれとそれに聞き入っていたという話があり、そしてホルへ・ルイス・ボルヘスの「幽冥礼讃」がある。

 『宇宙について』から『大白道』までの16年間に柴田は60の作品を残した。ただ一つの心残りは、no.120になるはずだった『賢王年代記』である。それは音楽と演劇が今よりはるかに親しかった頃のように、合唱が物語を展開させ、何人かのソリストが象徴的な演技と歌を受け持ち、ヨーロッパの古楽器アンサンブルとアラブの音楽が対立して二つの文化に引き裂かれた王の運命を描くはずだった。
聖王フェルナンド3世の長子で、「トレドの、レオンの、コンポステーラからアラゴン王国までの王、コルドバの、ハエンの、同じくセビーリャの、そしてムルシアの王でありアルガルベの王であるカスティーリャのドン・アルフォンソ」(聖母マリアのカンティガA)は、アラビア語を介してギリシャ・ローマの古典をヨーロッパに伝え、法を整え、「賢王」と称えられた。

しかし政治と軍事では挫折を重ね、ついに王妃と、長子亡き後王位を継ぐべきサンチョ王子に背かれる。400のカンティガを集めて豪華な写本を作らせるほど聖母マリアをあがめながら、同時に華麗なイスラム世界に魅了されたアルフォンソ10世は、唯一の味方だったセビーリャ市の大聖堂に眠っている。

柴田は199622日の深夜に息をひきとった。静かな死だった。私たちとO病院は、柴田が呼吸困難に陥っても気管切開はしないと申し合わせていたが、その必要もなかった。遺体とともに家に帰り、スタジオの中央に寝かせた。5日、出棺の前に上杉紅童さんが枕元で石笛を吹いてくださった。柴田の魂が古代の日本人そのまま、笛の音に送られて天に帰っていくのが見えるようだった。

本葬の217日は雪が降ってたいへんな寒さだった。数々の心のこもった弔辞をいただいたが、暁星小学校で同級だった横道萬里雄さんの声明と、東京混声合唱団による自作の『追分節考』(no.411973.東京混声合唱団の委嘱作品)を聴いて、柴田は音楽家冥利に尽きる思いだったに違いない。

墓所は「所沢聖地霊園」である。1980年に父雄次が他界したとき、父が書いた王義之の蘭亭の序から「畢」の一字をとり、黒みかげに刻んで墓碑とした。左手にやはり父の手跡による歌碑をたてた。この短歌「春浅き武蔵野々辺のくぬぎ原 木ぬれめぐむか打けぶる見ゆ」を、父は母の疎開先である茅ヶ崎と東京の間を行き来する電車の中で詠んだそうだ。

 埋骨の日、両親の遺骨は一人っ子の南雄を迎えて昔と同じ三人家族になった。

柴田の没後1年に親しい親戚だけで「柴田雄次・ナミ・南雄を偲ぶ会」という小さい集まりを持ったが、その後は仏教の忌日に何もしなかった。没後5年に際してCDを出すことを思いつき、自宅のスタジオで録音した演奏を音源として、フォンテック社に「柴田南雄と日本の楽器」を制作してもらった。収録されているのは次の5曲である。

1.枯野凩(no.901986)能管/芝祐靖 十七弦箏/沢井一恵
2.狩の使(no.1161993)三絃・唄・語り/高田和子
3.霜夜の砧(no.651980)長管尺八/三橋貴風
4.夢の手枕(no.711981)龍笛/芝祐靖 筝・唄・語り/友渕のりえ

 親戚や友人たちにCDを発送し終わった頃から日毎に体調が悪くなり、心療内科で軽い鬱病と診断された。私は柴田が亡くなってからも続けていた大学と短大のスペイン語講師をやめ、『賢王年代記』のために集めた本棚いっぱいの文献をなるべく見ないようにして虚しく時をすごした。

児童合唱の『銀河街道』に寸劇を組み入れたのは、音楽と劇のよりよい関係をめざしたささやかな実験だった。だが、音楽の作り手がいなければアイディアは所詮ただのアイディアにすぎない。そうして3年ばかり過ぎたころ、一緒に暮らしている長女が突然、部屋換えをしようと言いだした。階下の私の部屋を自分の仕事部屋にしたいというのである。

鬱状態のときは言い合いをするのも億劫なので、私は不承不承、本とワープロ類を三日がかりで2階に運び上げた。柴田の書斎だった部屋の片側の壁面だけ生前のままにして整理を終えると、さすがに疲れきっていたものの不思議なことに鬱状態は消えうせていた。

そこで久しぶりに柴田の曲を聴こうと法政アリオン男声合唱団のコンサートにでかけると、入り口で渡されたチラシの束の中に「柴田南雄の宇宙」というのがあるではないか。田中信昭さんを中心に企画されたこの没後10年コンサートのことを、私は全く知らなかった。私は驚き、終演後久しぶりに田中さんにお会いした。そのとき演奏予定のシアターピースの末尾に『大白道』と『ゆく河の流れは絶えずして』をつけ加えてもよいかと訊かれたので、喜んで承知した。田中さんの創意によって、作品は時に予想もしなかった新しい姿で現われる。私は柴田の没後12年に当たる2008年秋に、東京と大阪で後期の室内楽・歌曲・合唱曲の演奏会をしたいと思っていると話した。田中さんは「それはいい。できることは何でもしますよ」と言ってくださった。

 私は早速曲目の検討を始めた。幕開けは中嶋香さんのピアノで『四つのインヴェンションと四つのドゥーブル』(no.105.1990)。香さんの委嘱作である。最後のドゥーブルで、ピアニストが茨城県鹿島郡の蛤掻き唄を弾き歌いするのが実に魅力的だ。

二番目が『バリトンとコントラバスの五つの歌曲』(no.891986)で、以前から谷篤さんに歌っていただきたいと思い、楽譜をお送りしてあった。コントラバスを受け持つのは長男の乙雄である。南雄の父雄次の最晩年の漢詩を私が読み下して歌詞を作り、南雄が曲をつけ、コントラバスの伴奏は乙雄に託すという一家総動員作品なので、乙雄も「どうしてこんなに難しく書くんだ」と不平を言いながら真剣に練習したようだ。

はじめ、私は三番目に『GENERATION(no.681981)を演奏してもらいたいと思っていた。これは一柳慧・高橋悠治のデュオ・リサイタルのために作曲?されたもので、楽譜はない。レポート用紙1枚にいろいろな即興の方法を指示してあるだけだ。私は実際の演奏を聴かなかったので、カセット録音を聴いて非常に面白いと思った。しかし高橋さんが「あれは何回もやるものじゃない。たった一回、その時だけのものだ」というので諦めざるを得なかった。

そのかわり、ヴァイオリンとピアノの『歌仙一巻 狂気こがらしの』(no.591979)を演奏してもらうことにした。歌仙を巻く要領でヴァイオリンとピアノが交替する。つきすぎても離れすぎてもいけない付句で全体を形作っていくやり方は、すぐれて日本的だ。1995年に、北九州市立響ホールでみごとな演奏を聞かせてくれた数住岸子さんはもうこの世にいない。『狩の使』をCD「柴田南雄と日本の楽器」にとどめた高田和子さんも幽明界を異にした。二人とも惜しんであまりある夭折だった。

東京も大阪も前半のプログラムは変わらないが、合唱曲は、東京は田中信昭指揮の東京混声合唱団で『無限曠野』(no.1141995)、大阪は大阪の児童合唱団で『銀河街道』(no.1131993)である。

 2006827日の「柴田南雄の宇宙」はすばらしかった。日生劇場は満員札止めになった。私はそれまで『銀河街道』は大阪の指揮者にまかせてもよいと思っていたが、この日の演奏を聴いて考えを改めた。『銀河街道』に関するすべてを田中さんにゆだね、マネージメントを旧知の東京コンサーツに頼んで、私は108日に成田をたった。「歩いて楽しむサンティアゴ巡礼の旅」に参加したのである。

荷物を預かり、落伍者を収容するバスを伴った巡礼もどきの旅だが、一応徒歩でピレネーのペンタアルテ峠(1337m)を越え、通過証明のスタンプをもらいながら葡萄畑の間や森の中の旧道を歩いた。一番たくさん歩いたのは17日で、ポルトマリンから歩きだし、6時間歩いた末にルゴの町の城壁一周2キロのおまけがついた。

私は3年間鬱状態だったにしては快調に歩き続けたが、さすがに最後の日、「喜びの丘」を越えて雨のサンティアゴ・デ・コンポステーラに入ったときには疲れ果てていた。このツァーの参加者は大方が山歩きのヴェテランで、新米の私に登りのときはゆっくり息をするようにすすめ、「靴もザックも新しいのによく歩くね」とほめてくれた。ペースを落とした人の後ろに廻ってさりげなくカバーする人もいた。

 コンポステーラの巡礼事務所に出頭して、どこから歩いてきたかを訊かれ、歩いた距離が合計100kmに達していれば名前入りの巡礼証明書がもらえる。私にとっては10回目のスペイン行きだったが、旅らしい旅をしたと感じたのはこれが初めてだった。

 翌年、つまり20075月に欝病が再発して、私はまた怠け暮らしに戻ったが、コンサートの準備は着々と進み、田中さんが「柴田南雄の遺したもの」というタイトルを考えてくださった。会場も東京は文化会館小ホール、大阪はいずみホールときまった。『銀河街道』は、中井憲照指揮の大津児童合唱団と西岡茂樹指揮の豊中少年少女合唱団に、昔なじみの合唱団ローレル・エコーが加わって上演されることになった。

コンサートの日が迫っても私の欝病はよくならず、東京の演奏会の前日は起き上がるのも大儀で、東京―大阪の三日間を持ちこたえられるだろうかと心配になるほどだった。とにかくゲネプロと本番を聴いた。来てくれた人たちが「いいコンサートでした。ありがとう」と言ってくれて、重荷の半分がおりた。

次の日は大阪に移動して合唱団の練習(3時間!)、それからいずみホールのゲネプロと本番があって、没後12年のメモリアル・コンサートは無事に終わった。欲目でなく、すべての演奏にレヴェルのばらつきがなかった。それぞれの個性を発揮した、質の高い演奏だった。

満ち足りた思いで京都の旧アトリエに泊まり、翌朝早く東京に帰ってくると欝病は影も形もなくなっていた。

それから一ヶ月、体調は変わらないが、甲状腺腫瘍という思わぬ伏兵のために生まれて初めて手術を受けることになった。前頚部を切って腫瘍を摘出し、転移のある淋巴腺は廓清する。約2時間の手術は29日午後2時にはじまった。むろん、全身麻酔だから私は何も知らない。執刀医のS先生は10時間がかりの大手術チームの一員で、空き時間を利用して私の腫瘍を切除されたそうだ。
夜になって、長女からS先生の説明を聞いた。
 右側甲状腺の腫瘍は全摘して細胞検査に廻した。十中八九悪性で67年経過している。
発声に関係する半回神経をとりまく淋巴腺にかなりの転移があり、その一部が食道を圧迫していた。
今後は離散した癌細胞があるかどうか定期的に検査する必要がある。

「どんなに簡単な手術でも、事故がおきることはあるでしょう」と淳に脅かされた時には、「そうしたら、そこそこ面白い人生だったと諦めるまでよ」と虚勢を張ったが、ここでもう一仕事できる時間を与えられるとすれば、本当にありがたい。

 私は12年前、深夜のO病院で、柴田が突然「ママは大丈夫だ」と言いだしたことを思い出した。何か用事かと思った私は「何が?」と聞き返した。しかし柴田は「ママは大丈夫だ」と何回かくりかえし、そのまま眠ってしまった。

 柴田が何を言おうとしたのか結局わからずじまいだったが、今、J大病院のベッドの上でその声が耳によみがえると、柴田はあのとき12年後の私を見ていたのかもしれないと思うのである。

                       (2008.11.3. J大病院1925号室)