柴田雄次日記抄 昭和17年


1月元旦(木)快晴、無風、暖気。今年は年賀客もなからんと用意を怠りしに、午前早々、根本、中井両君を始めとして次々名刺を置き行かれし方々十二名に及ぶ。午後、〔柴田〕承二〔著者の甥、薬学、1915~〕、和子〔著者の姪、1918~2003〕、年賀に来訪。夜、月皓々として昼の如し。年頭の警戒管制も大して苦しからず。

 うまれにし年の暦はめぐり来ぬみどり子さびて心楽しも

1月2日(金)半晴、寒し。夜、満月磨くが如し。終日籠居。野口、山本二氏年賀来訪。午後、〔徳永〕元子〔著者の妹、徳永重康〔動物学、1874~1940〕夫人〕年賀来訪。

1月3日(土)快晴、午前北風寒かりしも、午後無風となる。夜、寒月冴えわたる。昨夜、外山氏より安達堅造氏〔1881~1942〕大患危篤の由、電話にて通知ありたれば、午前十一時ごろ家を出で慶応病院に同氏を見舞う。重態ゆえ面会はせざりしも、夫人に逢い容体を聞く。心臓、腎臓、肝臓の病にて、殊に心臓病のため注射を行ないたるに黴菌入りて所々化膿せりとのこと。いずれにせよ大いに重態の様子なり。帰途、新宿に出で二三買い物をなし、一時ごろ帰家。午後五時のニュースにて、昨日皇軍マニラ完全占領の公報を報せり。マニラ占領は即ち呂宋島の占領を意味し、先の香港占領とともに世界歴史の頁を書き改むる世紀の一大出来事なり。

1月4日(日)快晴、西風強し。午前、新宿に行き、庄司にて散髪し、中村屋にてパンを買う。午後二時より青山祭場にて催されたる故・真鍋嘉一郎氏〔医学、1878~1941〕告別式に臨み、帰途、徳永〔重康〕氏墓を展す。帰家すれば小石川兄上〔柴田桂太、植物生理学、1877~1949〕来訪せられ居り、夕刻までありて帰らる。今夜より警戒管制解除。

1月5日(月)快晴、風あり寒し。午前、教室に行く。川久保氏ほか二学生あり。今日の当直の人なり。帰途、本郷にて買い物す。

1月6日(火)快晴、無風、寒気強し。今日より金属開講す。午前十一時より震研〔東大地震研究所〕所員会議あり。所長寺沢〔寛一〕氏〔物理学、1882~1969〕ある理由のため辞任したればその後任を推薦したるに妹沢〔克惟〕氏〔地球物理学、1895~1944〕当選す。夜、小穴〔進也〕氏〔地球化学、1914~2007〕来訪、蜂蜜を到来す。

1月7日(水)曇天、昼ごろ小雨。寒し。非金属開講。午後、菅原〔健〕氏〔地球化学、1899~1982〕来訪。

1月8日(木)快晴、寒し。陸軍始観兵式取り行なわせらる。今日より毎月八日をもって大詔奉戴日として紀念日とし、その代わり一日の興亜奉公日を廃せり。午後、岩村新氏、津田栄氏〔化学教育、1895~1961〕等来訪。昨日午前、波多野貞夫〔工学者・海軍中将、1881~1942〕逝去せらると。氏は昨年ごろ多少健康を害し居らるる様子なりしが、過般来〔東大附属病院〕坂口内科に入院中ついに逝かれしなりと。氏の学術振興会に尽くせる功績は到底筆残の尽くし得るところにあらず。あまりの献身努力の結果がここに至れることは明らかなり。今日教室の帰途、牛込津久土八幡町の令弟岩田氏方を弔問す。

1月9日(金)快晴。午後一時より、牛込見附内麹町教会にて、故・波多野貞夫氏葬儀キリスト教式にて行なわる。多数の花環に埋もれたる遺■の前にて形のごとく祈祷、讃美歌等ありて、多数の弔辞あり。一時間余を要せり。会葬者すこぶる多数。■に見る盛儀なりき。式後、教室に戻る。昼ごろ田中泰夫氏、夕刻、久保秀雄氏〔植物生理学〕来訪。

1月10日(土)快晴。非金属講義を了わる。大正二年十一月に処女講義を開始して以来、じつに三十年目なり。午後一時より臨時地球化学会を開き、旧臘小穴君指導の下に前期生一同多摩川を山梨県下の泉源より神奈川県の河口に至る約三十か所において一度に排水観測せし結果の総合を討論す。概してPHは下流に至るにしたがい次第に増加し、温度も多少の同様あれどこれもまた概して上昇し、Clイオンも規則正しく漸増し、CaとSO4とは付近の地質にしたがって甚だしく動揺す等、一二五キロにわたる多摩川の全貌をよく達観し得たり。のち茶話会を開き、四時散会す。夜、江上君、続きて田中君来訪。江上君よりはイランの卓布を、田中君よりはチョコレートおよび支那墨を到来す。

1月11日(日)晴天。午前、新宿へ買い物。夕刻、植村氏来訪。

1月12日(月)曇天、夜に入り雨。午後、名古屋より山崎〔一雄〕氏〔化学、1911~〕上京。いろいろ用向きを伝う。昨日クアラルンプールを占領、また今日セレベスのメナドおよび蘭領ボルネオのタラカンを占領せる由。ついに蘭領に手を付けたるため、政府より一応の声明あり。

1月13日(火)昨夜の雨は遅く雪となり、今朝はやみ居たれど三寸ほども積もれり。今日半晴、寒し。正午より、大手町の日本肥料会社において農林省主催のカリ肥料の協議会あり。岡本資材部長はじめ農林官吏、および日本肥料、昭和炭素工業等の技師連、春日井、永井、麻生博士等出席。安藤老博士司会の下に、主として下田萬蔵山カリ石英粒面岩の工業化につき報告あり。まず昭和炭素工業よりの報告、続きて東京府工業試験所の橋本技師より他の方法につきての報告あり。種々質疑応答あり。午後四時散会。

1月14日(水)快晴。午前九時半より如水会館において学振第十七特第六分科会(稀有元素)あり。木村主査司会の下に開かる。今日が初会合にて、委員一同名乗りの後、今後の方針、予算分配等を議し、正午会食して散会。午後一時より第十七特本会議あり。田中委員長司会の下に各分科会の報告ありて後、不足資源なるものが南方共栄圏を考慮に入れて再検討を要すべきをもって、これに関し意見の交換を行ない、午後四時半散会す。午前、会議の席に学習院の有山〔兼孝〕教授〔物理学、1904~1992〕および冨永教務課長来訪。井上敏氏〔錯塩化学、1894~1967〕病気欠席のため、臨時後任を周旋しくれとの依頼を受く。

1月15日(木)快晴。午後、学習院の有山氏来訪。同氏に岩崎友吉氏、川久保正一郎氏を紹介し、この両人にて井上君の病気中の補欠とするに決す。夕刻、田中実氏〔科学史、1907~1978〕、大日本図書の丸山氏を伴ない来訪、一種の科学叢書を発刊する旨を話さる。

1月16日(金)快晴。午後一時より教授会。学位審査報告(物理一、化学一、天文一)の後、入学試験に関する協議会あり。午後五時過ぎより華族会館において資源諸科学連盟結成一周年の祝宴あり。鷹司〔信輔〕公爵〔鳥類学、1889~1959〕の招待なり。出席者百二十余名、盛大なりき。

1月17日(土)快晴。午後一時より如水会館において学振第三十四特の石綿協議会あり。三時半に中座して四時より文部省に催されたる科学課嘱託会議に出席す。本年春期科学課にて催す学術総合講演会、外国書翻刻、科学分類の件等を協議し、午後八時散会。

1月18日(日)快晴。今日は町会の防空演習の日なり。午前は資材の点検とのことなれど、先日回状を回し置きたれば別段何もせず。午後一時半より戸山国民学校に集まれとの指令に吉阪隆正氏〔建築家、1917~1980〕を誘い、バケツを提げて定刻集まる。今日は警防団が手押しポンプを操り、これが供給する水をバケツリレー何本にて足るかの実験にて、四斗樽にホースを入れ、これが常に渇水にならぬためには三列のリレーを要することを知り得たり。町長佐藤氏の挨拶ありて散会せるは三時。午後四時、菅原氏来訪。氏は昨日名古屋へ行き種々の要件を携え来たり、要談す。夜、小石川へ行き兄上と名古屋生物学教室の人事を相談す。

1月19日(月)快晴。午前、青木文雄氏来訪。午後一時より、上野精養軒において学研特別委員会あり。戦時下における科学の態勢を如何にすべきかを論じ、特別委員会を設置するため各部各科の会を至急催すこととし、会食の後、午後七時半散会。

1月20日(火)快晴。午前の金属講義後、直ちに教室を出で、上野広小路の風月にて昼食し、松坂屋にて名古屋行の切符と急行券を求め、御徒町より東京駅に出づ。午後一時三十五分大阪行に乗ぜんがためなり。早く行きて改札口にて待ちたるため、一行の先端に近く立つを得たるが、この汽車は割合にすき居たるため、それほど早く来る必要もなかりしなり。定刻発車、富士は片雲なく、あの辺の風光、毎度のことながら嘆賞に値す。この列車は和食堂を有するをもって、午後五時半ごろ浜松に近づくころ食堂に入り夕食。午後七時四十四分名古屋着。山崎君、駅まで出迎えらる。電車にて例のごとく観光ホテル〔1936年開業〕に入る。

1月21日(水)快晴。午前九時、ホテルに高嶺昇氏〔植物学〕来訪。生物学教室開設に関しなお種々の打ち合わせをなす。十時少し前、ホテルを出で電車にて西二葉町の大学に行く。渋沢総長と理学部開設につきその後の報告を互いに聴取し、人事問題の打ち合わせ等する間、昼となる。今日は理工学部会食日なりとのことにて、恰もよしと諸君と会食し、午後一時より時局下大学幹部懇談会に臨時出席す。医学部長田村〔春吉〕氏〔1883~1949〕、工学部長生源寺〔順〕氏〔機械工学、著者の兄嫁の兄、1887~1966〕、中島生徒主事、野口孝重教授〔電気工学〕等出席。総長より種々報告あり。午後二時これを終わり、二時より別室にて愛知県科学技術振興会化学委員会あり。申請および審査の問題、および提出中の二三の問題につき種々意見を交換し、午後四時散会す。次回は二月六日とのこと。午後四時より総長および生源寺氏と自動車にて東山の建築を見に行く。意外に進捗せり。■■四棟のうち二棟はすでに立ち上がり居れり。他二棟も基礎工事は全部出来し居れり。この調子ならば一応三月中には形を整うべし。また万一竣工に至らずとも、応化のバラックが用いられうる確信を得たり。車を回し、徳川町に渋沢氏を、白壁町に生源寺氏を降ろし、予は最後にホテルまで送られ、帰りしは五時過ぎ。

1月22日(木)朝薄曇り、次第に晴れ快晴となる。温度やや登る。午前九時過ぎ、ホテルの支払いを済ませ、荷物を持ちてまず電車にて第八高等学校を訪い、伊藤校長に逢い高嶺氏を名大に貰うことにつきての了解を求め、ついで高嶺氏に逢い種々の打ち合わせを行ない、十時半ごろ立ち出で、電車にて鶴舞公園にいて病院に田村氏を訪う。氏、予を待ち居り、直ちに車にて千種区田代町の椙山氏邸を訪う。じつは同氏令息の家の一間を当分借りることと田村氏の周旋にて大体きまり居たるため、これを見分するためなり。申し分なき部屋にて、大学の敷地を一望の下に望む位置にあり。大学まで徒歩にて十五分ほどなり。椙山正弌氏〔今子夫人とともに椙山女学園創立者、1879~1964〕、息・正雄氏〔発生生物学、1908~1993〕等と少時雑談して辞し、さらに大学医学部に戻り、教授諸君と会食す。渋沢総長、原事務官も来会。予は一時ここを辞し、いったん停車場に行きて荷物を一時預けとし、再び町に出でて一二買い物をなし、また停車場に戻り、三時四十五分発の燕に乗る。ところが午後八時過ぎ藤沢に着したるとき、不時停車をなし、なかなか発車の模様なし。三十分ほどして聞けば、品川に脱線あり、復旧困難の様子なりという。やがて発車し、大船にてまた停車のうえ電車に乗り換えくれという。この電車、横浜までにて、また乗り換えなり。かくて品川にて山手線に乗り換え、帰家せるは十時半。ちょうど一時間を遅れたり。

1月23日(金)快晴。午前、黒田〔成勝〕氏〔数学、1905~1972〕、午後、久保氏、島村〔環〕氏〔細胞遺伝学〕等来訪。午後五時半ごろより学士会館にて催されたる工業化学会有働賞授賞者詮衡委員会に出席。

1月24日(土)快晴。午前、〔東大〕動物教室に合田〔得輔〕氏〔1901~1949〕を訪い、名大動物教官のことを懇談す。午後、動物の佐藤〔忠雄〕氏〔発生生物学、~1977〕の来訪を求め、名大就職の件につき熟議し、二三日後回答することとなる。ついで青山高樹町の資源科学研究所に兄上〔当時、資源科学研究所長〕を訪い、名大生物学教室の件を協議す。大工金子を招き、借家を建築することにつき見積を頼む。

1月25日(日)快晴。金子、午前に来たりて建築地を見て行きしが、夕刻代願人をつれ来たり、大体の実測をなし、夜、図とともに代願委任状を持ち来たる。南雄名義にて捺印す。午後、佐藤忠雄氏来訪。名大赴任を快諾せられ、これにて動物のほうも一解決を得たり。午後、新宿へ買い物に行く。

1月26日(月)快晴。午前、新宿庄司にて散髪。午後、名大理関係の黒田、能代〔清、数学、1906~1976〕、小野〔勝次、数学、1909~2001〕、宮部〔直巳、地球物理学、1901~1969〕、早川〔吾郎、物理学、~1945〕、上田〔良二、物理学、1911~1997〕、菅原〔健、地球化学、1899~1982〕、小穴の諸氏を集め、十七年度数物化増築工事につき各教室割当坪数の下協議会を開く。大体各教室の要望をきき、これにて略図を作り、また二月五日に集まりて再検討をなすことを約し、午後四時ごろ散会。夕刻、久保氏来訪。

1月27日(火)快晴。金属講義後、動物学教室に合田氏を訪う。座に兄上あり。動物の人事につき相談す。午後、また動物教室を訪い、合田、佐藤両氏に逢い、佐藤氏には名古屋へ行きてもらうことを頼む。ところが夜に入り小石川〔兄宅〕より電話かかり、高嶺氏金曜日夜上京するゆえ、二十一日午前、一同資源科学研究所へ集まりくれとのことにて、直ちに佐藤氏にこの旨電話す。佐藤は明後日の特急券まで求めたる由なるも、棄権してもらうこととす。

1月28日(水)快晴。午後、教室内人事問題の相談をなし終えて、化学会人事を議す。三時半、教室を出で、木村〔健二郎〕君〔分析化学、1896~1988〕と芝公園内水交社へ行く。午後四時半より国防科学協議会において、木村君の温泉の科学なる講演会あるためなり。右講演会後、ハワイ海戦〔真珠湾攻撃〕ニュースおよび海軍訓練の映画あり。ついで一同会食の後、八時過ぎ散会。帰家して直ちに隣組(徳永〔重康、著者の義弟、動物学、1874~1940〕方)に出席す。

1月29日(木)快晴。女子理学〔帝国女子理学専門学校、東邦大学理学部の前身〕の堀教授来訪。午後四時より日本クラブにて催されたる服部報公会に出席し、本年度前期補助審査をなす。五時過ぎ中座し、直ちに永田町文相官邸に行く。〔橋田邦彦〕文相〔生理学、1882~1945〕より研究会議総務部員の招待ありしためなり。会長副会長以外は皆出席。会食後、文相、局長等と懇談し、九時前散会。

1月30日(金)快晴、西北風猛烈、寒し。朝、佐藤忠雄氏来訪。動物の人事を報告せられ、また教室に山本〔時男〕氏〔発生生物学、1906~1977〕を伴ない紹介せらる。午後一時半より〔東大理学部の〕教授会。数学および物理に四人の卒業生あり。終えて人事問題協議に入り、化学より山口氏、南氏を教授に推薦す。教授会後、西川〔正治〕氏〔物理学、1884~1952〕、菅原氏、大■氏等来訪。

1月31日(土)快晴。午前十時、青山高樹町資源科学研究所に行く。ここに名大生物関係者参集して、十七年度における生物教室建築の相談会を催す。集まる者、高嶺、島村、久保、佐藤、山本、石田〔寿老、動物生理化学〕の六氏に小穴君を加え、高嶺氏の携え来たれる図につきて検討し、昼食を共にして後、予と兄上とは諸君よりも一足先にここを出で、予は丸の内糖業会館において二時より催さるる学研化学科懇談会に出席す。会者二十名、戦時下における科学ならびに学研の取るべき態度につき種々意見の交換をなし、化学科会として明日の総務部会に提出すべき回答を協議し、午後五時夕食を共にし六時散会。

2月1日(日)昨夜皓々たる寒月冴えわたり居りしに、今朝は厚く曇り午前九時ごろよりちらちらと白きもの落ち始め、ついに大雪となり、終日降り続き、夜には二三寸積もれり。午前十一時過ぎより、丸の内会館にて学術研究会議特別懇談会あり。即ち総務部員以外各部より一人ずつの部員参加し、戦時下に執るべき学術研究会議ならびに学術態勢につき昨日までに各科各部において懇談の結果得られたる決論を披露し、これを基礎としてさらに文部当局と総務部員とにて協議することとし、午後三時半散会す。夜のニュースにて、ついにジョホールバルー陥落の報を告ぐ。じつに開戦以来五十五日にて一千一百キロを踏破したるものなり。捕虜約一万、遺棄屍体五千とのこと。シンガポール二百年の運命もいよいよ断末魔に来たれり。

2月2日(月)昨夜の雪四寸ほど積もり、今朝は小雨となれり。やがてやみ、午後は半晴。午後一時半より教授会。主として入試の問題なり。夜七時半より、皆中稲荷社務所にて防空群長会議あり。近く行なわるる防空訓練行事につき町長より説明あり。

2月3日(火)曇天やや暖気。金属講義を了わる。予が本学〔東大〕における最後の講義なり。三十三年自ら御苦労というだけなり。午後、評議会。夜、地球化学会。佐々木次郎氏当番。

2月4日(水)曇天。名古屋より山崎氏上京。夜、大工金子来たり、新築の見積を持参す。約一万円かかる由。

2月5日(木)快晴。午後二時より名大理教官連を集め、第二次入試問題、建築問題等を議し、午後五時散会す。

2月6日(金)半晴。植木屋、樹木の移転に着手す。午後、文部省の犬丸氏来訪。

2月7日(土)快晴。

2月8日(日)晴天、風あり、すこぶる寒気。大詔奉戴後、午前、新宿に買い物に行く。朝、大工金子の家にて小火あり。幸い破目を一坪ほど焼きたるだけにて事なきを得たり。夜、積木氏を訪いて、十九日に催さるる防空演習につきいろいろ質問し来る。

2月9日(月)快晴、寒気強し。朝、区役所に行き女中のために衣料切符を貰い、ついで目白の徳川生物研究所に侯爵〔徳川義親、植物学、1886~1976〕を訪いしに幸い在所〔著者の祖父は尾張藩医〕。まず名大理学部開学につき挨拶を述べ、なお名古屋出身物故科学者表彰の件につき侯爵の後援を請いしに、幸い家令鈴木氏この件につきすでに取り調べつつあり、史料も徳川家文庫中にあれば、鈴木氏を紹介すべしとて、人をして侯爵家のほうに案内せしめらる。侯爵は明日マレーに向けて出立せらるるなりとのことにて〔軍政顧問としてシンガポールに赴任〕、無事の旅程を祈り厚く謝して別れ、ついで鈴木氏に逢う。氏は故・三浦鍋太郎氏〔著者の姉・菊子の夫、土木工学〕と小学以来の竹馬の友なりとのこと。尾張人物故科学者の件につき種々話し合い、向後の後援を頼み聞こえて十二時少し前辞去。本郷に戻り、鉢の木にて昼食して教室に行く。午後、菅原、宮部両氏と今後経費分配の件等につき懇談す。夕刻、美術学校の森井氏来訪。

2月10日(火)快晴、夜曇り雪降る。朝、目白の学習院に行き、山梨〔勝之進〕院長〔1877~1967〕と面会。有山教授を名大に貰うことにつき了解を請い、暫時雑談し、ついで野村高等科長、ついで冨永教務課長等に逢い、有山氏とも要談し、十一時半、学習院を辞し教室に行く。午後三時過ぎ教室を出で、駿河台下にて散髪し、午後五時半、麻布飯倉六丁目の中華民国大使館に行く。今夜、徐大使より招待在りしためなり。同席者は長井、田中、荒木、鈴木の諸教授および大使館側は大使、令息、孫参事官、馬秘書官、某通訳等にて、通訳に当たれる某氏の流暢な日本語に驚嘆す。はじめは全く邦人と思いたるほどなり。会食後、清談一時間余。午後八時辞去す。

2月11日(水)快晴、寒気強し。紀元節式典出席のため登学。これが予にとりて東京帝大における最後の式なり。椅子張り代えの職人三人来たり、居間のアームチェア二脚、ソファー一つ、小椅子九脚の張り代えをなす。この費用一七六円なり。夜九時のニュースにて皇軍今午前八時シンガポール市街に突入せることを報ず。

2月12日(木)半晴。午前十時過ぎより日本化学会桜井賞詮衡委員会あり。委員、大幸、松原、片山、加福、眞嶋、飯島の諸博士参集。種々詮衡の末、森野米三氏〔化学、1908~1995〕と決定。さらに午後一時より同じく日本化学会眞嶋賞詮衡委員会を開き、委員、松原、眞嶋、片山、小松、野村、久保田、諸博士参集。久保田氏より藤瀬氏を、小松氏より荒木氏をそれぞれ候補者として提出。互いに業績につき説明ありしが、結局藤瀬氏と決定す。ついで、寺沢、掛谷〔宗一、数学、1886~1947〕両氏と文部省研究費審査委員顔ぶれにつき協議し案を作り、また教室に戻り、菅原、宮部両氏と名大理学部建設費および経常費の分配方法につき協議し、四時半これを終える。夜、皆中稲荷社務所にて防空訓練に関し町会長より一般的指示あり、これに出席す。今日結局、朝より夜に入るまで五種の会合に出席せるわけなり。

2月13日(金)晴天、風強く寒し。朝、安田銀行に行き定期三千円と利子とを受け取り、ほかに七五〇円を出し、三越にて十五日夜大阪行の切符急行券寝台券(二五・三○)を求め、いったん帰家し、大工金子に第一回の払金として三千五百円を与え、ついで教室に行く。今日は珍しく教室には全く訪客なく、心静かに点調べをなすを得。全部を終われり。

2月14日(土)快晴、寒気。午後一時より、日本化学会常議会。これを了わり、午後三時より丸の内糖業会館にて催されたる学研総務部会に出席す。戦時下本部科学態勢の問題につき小委員案を討議し、午後九時散会。

2月15日(日)起き出づれば降雪二寸余、なお盛んに降れり。昼過ぎやみ、夕刻晴模様となる。午前、雪を冒し新宿に買い物に行く。帰りてより吉阪〔俊蔵〕氏〔内務官僚、1889~1958〕および黒柳氏に来たる十九日防空訓練の件を通告しに行く。夜九時十分発大阪行にて大阪に向かう。

2月16日(月)晴曇不定、寒し。昨夜半、いずこの駅とも知らず、ふと覚むれば大声にてアナウンスし居れり。曰く「皆様に申し上げます。今日午後十時十分大本営発表によれば、今日七時五十分シンガポールは陥落いたしました」と繰り返し居れり。ついに世紀的の出来事成就せられ、これを旅中寝台車にて聞くというも一つの忘れ難き紀念なり。おそらく沼津あたりなるべし。午前七時起床、ボーイに朝日と毎日とを求めさせ、その詳報を貪り読む。大津にて弁当を買わせ、茶なしにて済ます。雪は京都あたりまで道を白くする程度に降れり。しかし今日はこのあたり快晴なり。午前八時三十分、梅田着。この新駅は初めてなれば、駅内をうろつき食堂にて珈琲を喫し、駅を出でタキシを求むれば、ここには乗合タキシあり。幸い新大阪ホテルに行く夫婦連れの人と同車し、大学に行く。三十銭は安し。大学には時間早ければ誰もまだ見えず。やがて赤堀〔四郎〕氏〔生化学、1900~1992〕に逢い、外套荷物を同氏の部屋に預け、数学教室に吉田〔耕作〕助教授〔数学、1909~1990〕を訪い暫時雑談等するうち、部長出勤とのことにて、折から登学せる清水〔辰次郎〕教授〔数学、1897~1992〕とともに八木〔秀次〕部長〔電気工学、1886~1976〕を訪い、吉田、中山〔正、数学、1912~1964〕両助教授を名大に貰いたることに対して挨拶を述べ、暫時雑談して別れ、赤堀氏の部屋に戻れば仁田〔勇、結晶化学、1899~1984〕、水谷両氏来会。昼少し前、昼食を共にせんとて出で立つ。この時、小竹〔無二雄〕氏〔有機化学、1894~1976〕も来会。五人にて新大阪ホテルのグリルにて会食す。一時、諸君に別れ、朝日ビル前よりタキシにて上本町の関急停車場に至る。ちょうど一時半名古屋行急行出発するところにて、時間の無駄なく出発するを得たり。二三年前、奈良よりこの線にて名古屋に向かいたることあれど、その際は夜にて沿道の風光を見る能わざりしも、今は大和、伊賀、伊勢、尾張を貫くこの沿線をつぶさに見得たり。ただ、伊勢湾に沿う風光は意外に平凡にして、大いに意外なり。ただし三時半、中川にて乗り換えたる後は非常の雑踏にて、ようやく座席は取り得たるも、立ちはだかる人のため全然窓外を見るを得ざりき。午後五時十五分、名古屋着。直ちに電車にて観光ホテルに入る。夜、山崎氏ホテルに来訪。

2月17日(火)快晴、朝、薄雪の跡あり、寒し。午前七時半ごろ食堂にて朝食し、了わりてロッビーにて新聞読み居りしところへ山本時男氏来会、やがて佐藤氏も来会。佐藤氏は昨夜、駅近くに宿りし由。暫時雑談後、三人にて出で立ち、電車にて大学に向かう。九時半着。総長まだ出勤せず。原〔進一郎〕事務官の部屋にて一同を紹介等し居るうち、高嶺、久保、椙山三氏来会。十時、渋沢氏登学、よりて佐藤、山本、久保の三氏を紹介し、渋沢総長より生物学〔教室〕誕生につきいろいろ苦心談等あり。建築の件を一同承認したれば、十一時半ここを辞し、この人々を伴ないお城入口の商工館地下室なる莱香林という支那料理にて昼食を共にし、これを終わり電車にて東山の敷地に向かう。建築場を一周し、動物園前に出で、ここにて佐藤氏、椙山氏は動物園に行くとて別れ、吾人は電車に乗り、高嶺、久保両氏は新栄町にて下車、山本氏は帽子を大学に忘れたるため東新町にて乗り換え、余は栄町をぶらつきいったんホテルに戻り休息す。午後四時半、ホテルを出で、今夜の愛知県科学技術振興会会場たる商工館に向かう。五時より地下室の支那料理にて会食。即ち一日に二度も同じものを食う破目となる。■食後、四階の一室に移り化学部会を開き、応化の十二件、純化の四件を処理し、午後八時散会。徒歩にて帰宿す。今日は終日じつによく歩きたり。

2月18日(水)晴天。今日は八時二十分名古屋発の急行にて帰京と定めたれば、やや早起きして支度整え、朝食を七時に取り支払いを済ませ、七時半ホテルを出で電車にて駅に向かう。定刻発、この汽車は混み合わず、二人分の席を占め得たり。今日は新嘉坡陥落祝賀日なれば沿線は帝旗ひらめき、児童の旗行列等あちらこちらに見ゆ。静岡にて弁当求む。これも平常よりも中身よし。午後二時四十分品川にて山手線にて乗り換え、三時過ぎ帰家す。

2月19日(木)曇天。第八部第四、五隣組防空訓練の日なり。午前十時より、まず平常の服装にて一同を吉阪氏邸前に集め、防空常識を講演す。三十分ほどにして終わり、十一時を期して第四組より一人、第五組より一人、服装を整え再び吉阪氏邸前に来るまでの時間を記録することとし、いったん家に戻る。十一時に至り、第四組の一婦人、指導員来たれりと呼びに来るよって行く。依田氏あり、今より二十一日の訓練の下稽古をせよという。予は午後所用あるため今日はもはや時間なしとてこれを拒絶し、二十一日午前十時より一度訓練予行を行なうこととし、帰家。昼食の後、教室へ行く。午後、教室への訪客、高桑氏(中野有礼氏紹介)、菅原氏、山本氏。山本氏、高円寺の古本屋にて『名古屋市史人物篇』二冊を探り来られたれば、直ちに譲り受く。五円五十銭なり。これは過日徳川邸にて鈴木家扶より勧められたる書物にして、名古屋の古本屋を探さねばなからんとの品なりしを、ほとんど新本にて二冊とも入手するを得たるなり。

2月20日(金)快晴、北風強く寒気漓烈。午前、入江氏来訪。午後一時半より教授会。学位四人(うち化学は藤山、伊川の二氏)可決し、次に人事問題に入り、教授として弥永、山口、南の三氏、助教授として今井、中野、野口の三氏決定。講師に安藤氏、評議員に掛谷氏当選し、午後五時散会。

2月21日(土)快晴。今日は防空連合訓練の日なり。じつは午前十一時半に、花ずし通りに10kg油脂焼夷弾落下の想定にて防護団と連合にて訓練を行なう手筈なるが、一応予行をしてみようとて、午前十時に隣組の人々を集め、隣の防空群の人々と連合して予行をなす。いったん各の位置に待機して合図を待つ。午後十一時四十分ごろ合図あり。一同を導きて現場に行く。ここにて例のごとき砂、叺、バケツ等の行動あり。やがて警防団、手押ポンプを持って出動し来たり、これに水を供給する動作をなす。かくて正午過ぎ、やめの号令にて手を引き、整列して指導員の講評を聞き、十二時二十分散会す。昼食後、教室に行く。

2月22日(日)午前晴天、午後曇天、温度やや昇る。午前、例のごとく中村屋の菓子を買いに行く。午後、島村環氏来訪。午前、外山氏より電話あり、安達堅造氏ついに今朝逝去せられたる由、よりて夜弔問す。外山、中村、松山諸氏来会。九時半まで半通夜をなし帰る。

2月23日(月)快晴、暖気。午前九時半より文部省において、師範学校昇格につき教授要目改正委員会の総会あり。これは数、物象、生物の三科に分かれ起草委員が起草せる案につき検討するだけにして、同じくこれら三科に分かれ詳細に検討し、午後三時半終わる。明日これを三科において総合検討するはずなり。これを了わりて直ちに丸の内糖業会館に催さるる学術研究会議総務部会に出席。例の戦時下における学研の態度に関する声明書を検討し、午後九時散会。

2月24日(火)朝雨天なりしも午前中雪に変わり、終日降る。午前九時半より文部省にて、昨日の続きの師範学校教科要目の連合会あり。各科より修正点の報告あり。正午会食後、予は中座し目白の安達邸に行き葬儀に臨む。午後三時出棺までありて辞去す。夕刻、玄関まで佐藤氏履歴書を持ちて来訪。夜、菅原氏来訪、名古屋よりの報告を持参。

2月25日(水)快晴、昨日来の積雪約四寸、樹々の枝折れも相当にあり。近来の大雪なりき。午前、仁田氏、午後、杉浦勇吉氏来訪。帰途、剃刀の刃砥の出来せるものを取りにわざわざ肴〔町の〕菊秀にまわりしに、本日休業の札なり。午後四時より工学部総合研究所所長室にて、日本学術協会評議員会あり。出席者は数人なれども委任状定数あり開会。収支決算、本年度事業等を承認し、五時散会。

2月26日(木)朝小雪、間もなくやみ曇り、寒気甚だし。朝、郵便局にて所得税二二〇・五一円納付。帰途、肴町の菊秀に立ち寄り剃刀の刃を取り、新宿にまわり食料品を買うつもりなりしに、デパートすでに閉まり無駄となる。

2月27日(金)雨、午後やみ曇り、寒し。朝、吉阪〔俊蔵〕氏を訪い、令嬢婚礼につき祝品を贈る。午後、教室の帰途、三越本店にまわり、川久保氏結儀祝品としてテーブル掛けを二十八円五十銭にて求め、木村、長井両氏および予の名義にて川久保氏方へ送らしむ。午後、何となく気分悪かりしが、夜に入り下痢を始め、数回上■す。今日の昼の食堂にて怪しげなる挽肉のビフテキを出したるが、これの中毒らし。

2月28日(土)快晴、暖気。絶食同様にし、寝たり起きたりして暮らす。今日昼、故・安達堅造氏初七日のため招待を受け居り、また午後学振肥料資源の委員会ありしが、いずれも電話にて断わる。

3月1日(日)快晴、暖気。雪のため久しく休み居たりし植木屋、今日よりまた仕事を始む。午後、新宿へ買い物に行く。その留守に植村氏来たり、待ち居られたり。日本科学協会の件および学振の件等の用件にてなり。三時過ぎ辞去せらるるや、間もなく久々にて青木芳彦氏来訪。

3月2日(月)雨天。先月二十七、二十八両日にわたり、バタビアおよびスラバヤ沖にて大海戦あり、英米蘭濠連合艦隊に大打撃を与えたるわが軍は、ついに一日に至り初めて爪哇島に大軍を上陸せしめたる由、今日発表あり。蘭印は大東亜戦の初めにおいてわが邦わざと宣戦せずしてその態度を注視せるに、米英依存のみに終始して求めてこの不幸に陥る、哀しむべし。

3月3日(火)曇天。午前、名古屋より帰れる菅原、宮部氏および上京の山崎氏等来訪。名古屋にて行なわれたる理学部入学者身元調べの結果を聴取す。午後一時より評議会。夕刻、中野有礼氏〔前日本曹達社長〕、高桑氏とともに来訪。ジャワ、バタビアおよびスラバヤ大海戦にて米国旗艦ヒューストン以下、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦等、二十三隻を撃沈せる戦果の発表あり。これにて事実上連合国艦隊は全滅せり。わが邦の損害は敷設艦沈没一、駆逐艦小破一の由。

3月4日(水)快晴。午前十時より、関口台町天主公会堂において故・山本信次郎氏〔海軍少将、1877~1942〕告別式あり。これに出席し、直ちに教室に行く。やがて名大の渋沢氏および原事務官来訪。近く任命すべき教授助教授の官等俸給等を相談し決定す。午後、佐藤大瀧氏等来訪。教室の帰途、新宿にて散髪。夜、突然警戒警報発令せらる。訓練のためなり。

3月5日(木)午前曇天、時々小雨、午後雨。朝食中八時のラジオ突然中止して、横須賀管区空襲警報を伝う。さてはいよいよ警報かと話し居るうち、突然空襲のサイレン響き渡る。ついに来るもの来たれりとの感に緊張し、食事を中止し、衣服を着代えゲートルを巻き表へ出づ。群内を一応巡回するに、すでに支度調え立ち出で居る人々もあり。一二の人に見張りを頼み、腹が空っては軍はできずと腹ごしらえをなし、また外へ出でて警戒するうち、九時に解除のサイレン鳴り渡る。やがて大工、今日地鎮祭をなすべしとて諏訪神社の神主を連れ来たる。神主を二階にあげて着代え等なさしめ、地面には祭壇を作りて用意し、十一時ごろより指揮を初む。予と金子、高橋および大工の手伝い二人参列し、型のごとく祝詞あげて四十分ほどにして式を終える。神主帰るころより雨となる。昼食後、祝品を携え小石川〔兄宅〕に行き和子結婚の祝詞を述べ、ついで教室へ行く。午後五時半より丸の内糖業会館にて川久保吉阪両家の結婚披露あり、これに出席す。食卓につく前に草間嬢のピアノ独奏あり。食卓にて一場の挨拶をなす。八時半ごろ辞去。外は真の暗にて一歩抜きに歩く。

3月6日(金)朝雨、昼ごろより晴れ、快晴となりすこぶる暖気。午前九時より震研の会議室を借り名大理学部の相談会を開き、諸般報告および建設費分配の案等を議し、正午散会す。教室の帰途、上野にまわり国風盆栽展覧会を見る。

3月7日(土)曇天、夕刻より雨となる。昨夜就寝するや間もなくサイレン鳴り渡る。驚き飛び起き支度をなし、近所を起こしてまわる。ところが間もなく間違いとわかり、一度消したる街灯や残置灯をまたつける。時計を見れば十二時過ぎたり。また寝る。とんだ人騒がせなり。午前、江古田の武蔵高校に行き、校長山本良吉氏〔倫理学、1871~1942〕に逢い、小野勝次氏を名大に貰いたることにつき諒解を求む。午後三時過ぎ、三菱本社内日本化成に野口寅之助氏を訪い、野尻七郎氏技術院入りにつき面談せしに、結局野口氏より縷々事情を聞き、現状維持とす。

3月8日(日)快晴、風あり寒し。大詔奉戴日。午前、新宿へ買い物に行く。夜、平井氏方にて隣組常会あり。植木屋の樹木移植の仕事終わり、垣根にかかり大体了わり、地面は画然と二分せられたり。新築のほうも柱基底の穴掘り終わり、割栗を入れつつあり。

3月9日(月)半晴。午前九時半より如水会館にて学振第十七特別委員会あり。午前中は各分科よりの報告および予算の件を議し、昼食を共にし、午後一時半より同上第四分科即ち合成雲母の分科会あり。野田、村上氏等の報告あり。午後四時過ぎ散会す。ビルマ・ラングン陥落の報あり。

3月10日(火)朝雨のち晴れ、快晴となりすこぶる暖気。ジャワ軍、昨日無条件降伏せる由。あまりにも呆気なき戦争なり。何の用意も戦意もなくただ鬼面人を威し、それで引込む日本人と思って居た和蘭の気の毒さ。これにて昔長崎出島以来邦人と親しみ深かりしオランダも、地図の上より全く消え失せたり。朝、〔四谷〕大木戸の瓦斯会社に行き、瓦斯使用につき諒解を求めしに、家庭用ならば昨年の実績にて使用してよろし、ただしこれは内々ゆえ人には話さぬようとのことに安心す。向後も風呂も差支えなしと。午後三時半より帝国ホテルにて、上田良二氏と柴田和子〔著者の姪〕との結婚式あり、臨席す。媒酌人として永井松三氏〔外交官、荷風の従兄、1877~1957〕これに当たられ、神前にて型のごとく挙式あり。終えて写真を撮影し、休憩するうち時間来たり、続いて招待客も集まり、六時過ぎ食堂開かれ、百余人の来客にて賑やかなり。食後、西川〔正治〕教授の挨拶、寺沢〔寛一〕部長の乾杯あり。余は八時過ぎ辞去す。

3月11日(水)快晴、暖気。田中泰夫氏学位論文の審査要旨作製に終日を費やす。奉天の関末比古氏来訪。朝、川久保修吉氏来訪、内祝品到来。

3月12日(木)快晴。午後一時より大講堂において第二次戦捷祝賀式あり。野口研究所の田代氏来訪。同研究所評議員を依頼せられたれば承諾す。台湾の落合氏来訪。

3月13日(金)晴天。午前、教室へ松浦鎮次郎氏〔前文部大臣、1872~1945〕来訪。午後一時半より教授会あり。五人の学位審査通過。内に化学は小倉豊二郎、田中泰夫二氏。昨日午後四時警戒管制に入り、今日もついに解除せられず。

3月14日(土)快晴。昼ごろ南の風烈し。夕刻次第に曇りついに雨となる。朝、新宿安田〔銀行〕に行き、五〇〇円を出し、植木屋に約三〇〇円を支払う。植木屋の仕事ひとまず終わる。午前、黒田氏、大槻氏、飯盛氏等来訪。午後、日本化学会。警戒警報なお解除せられず。

3月15日(日)終日細雨■て暖気。今日は午前、防空訓練あるはずなりしも、雨天のため中止となる。午前、新宿へ買い物に行くこと例の如し。

3月16日(月)前日来の雨いよいよ降り募りしが、午後に至りてやみ、夕刻より快晴となる。今夜、名古屋に向け出発の予定なれば、やや早めに教室を切り上げ、支度をなし、午後十時家を出で、東京駅に至り、午後十一時二十五分発大阪行に乗る。満員にして二三佇立せる人ありしほどなり。灯管〔灯火管制〕中なれば車内暗く、読書もできず。また暖房なく車内すこぶる寒く、睡り難し。

3月17日(火)曇天、暖気。午前三時ごろようやく車内へ蒸気通り暖かくなりしため、睡気を催し坐ねむりをなし得たり。午前八時少しく前、名古屋着。駅まで山崎氏出迎われたり。人力車にてホテルに入る。部屋の用意まだなしとのことに、朝食を食堂にて採り、荷物を預け、山崎氏とともに大学に行く。物理の宮部、両早川〔早川吾郎助教授、早川正巳助手〔地球物理学、1913~2003〕〕の諸氏、数学の黒田、吉田両氏等あり。午前九時過ぎより数学一人、化学三人、物理七人の口答を傍聴し、昼少し前終わる。渋沢総長を総長室に訪ね要談し、昼、佐野氏等の部屋にて一同および来会の生物の高嶺、佐藤、久保氏等と弁当を取り終えて、一同打ち揃い東山へ行く。かくして建築の進捗状態を視察し、またこれが竣工の遅延に対する対策を議し、三時過ぎ教室に戻る。午後四時より会議室にて愛知県科学技術振興会の委員会あり。今日議題は尾張出身物故科学者顕彰の件にして、県下にて史実取り調べの熱心家数氏の出席を乞い懇談す。午後五時半ごろより、学生食堂にて理学部職員懇親スキヤキ会を催す。肉も野菜もまるで嘘のごとく豊富。全くもって近頃の豪華版なり。一同充分鼓腹し、七時半散会す。

3月18日(水)晴天、暖気。午前九時半、ホテルより車を雇い荷物を持ちて田代町の椙山氏宅に至り、荷物の保管を頼み、車を返し栄町にて下車、大学に行く。今日は午前八時より数物化各一名ずつの者の学術試験あり。数学は文学士(哲学)、物理は高校文科の卒業生、化学は日大予科の卒業生なり。試験は午後三時まで続く。昼は一同弁当を取り会食し、午後の語学の試験の結果までを見るに、化学は立派に及第、物理は不合格、数学はなお疑問あれば明日今一度呼び出して口述試験を行なうこととなる。午後四時ごろ、総長、生源寺工学部長、野口〔孝重〕教授等と部屋割のことを相談し、四時過ぎ一同に別れを告げて大学を去り、菅原氏と東新町の旭ホテルを見る、小ホテルなれども悪からず。この次はここに泊することとし、菅原氏に別れホテルに戻る。夕食後、菅原氏より電話あり。間もなく同氏来訪、なお二三の打ち合わせ事項あり。要談の後、八時半ごろ辞去せらる。

3月19日(木)晴天、暖気。午前八時二十分発にて出発のため早起き支度をなし、七時食堂開くや直ちに食事し、支払いを済ませ、七時半過ぎ電車にて駅に至る。切符を買うや、すでに改札口には長き列あり。間もなく開札、汽車はすでにプラットフォームに用意せられ居り、直ちに乗り込む。例のごとく静岡にて弁当、沼津にてプラットフォームを散歩するうち、宮部氏に逢う。同氏も同じ汽車なりしなり。品川にて乗り換え、帰家せるは三時半。留守のうちに小林善兵衛氏逝去の通知あり。先月二十二日に安達氏を失い、ひと月も経たぬにまた小林氏逝く。追々に同窓も減りゆく年となれり。

3月20日(金)快晴。午前、駒場の一高に行く。安倍〔能成〕校長〔哲学、1883~1966〕に能代氏転任の諒解を得んがためなりしが、校長不在のため電話にて呼んでもらい用向きを話す。ついで寮の生徒主事室に津田〔栄〕氏を訪い、安倍氏へ伝言を頼み、ついで教室に行く。菅原氏あり、要談して別る。午後四時より、丸の内会館にて学術研究会議総務部会あり。研究費査定の件、予算の件等協議し、支那料理の会食をなし、午後八時半散会。

3月21日(土)半晴、暖気。春季皇霊祭。夜、四宮知郎氏来訪。午前十時ごろ家を出で、中途にて花を求め、乗合にて原町幸国寺に墓参をなす。母上の祥月命日なればなり。ついで教室に行く。帰途、若干の書籍を持ち帰る。白木蓮咲き初む。

3月22日(日)快晴、すこぶる暖気。午前十時より、第八部第二三四五■連会防空訓練を行なう。今日の訓練は巡環運水と呼び、仮想ポンプへ水源より絶えず給水し、ポンプ勝つか給水勝つかを検討するを目的とす。即ちわが家の井戸を水源とし、約五間を隔てて三個の樽を置き、これを仮想ポンプとし、また十間の間隔に一つの樽を置きてこれを火点とし、女子はリレーにてポンプに給水し、男子は三個の樽よりバケツにて走って第三の樽へ水を注ぐという訳なり。ところが女子総数三十五名、男子十三名なり。女子がリレーにて三個の樽に給水満水せしむるに三分を要す。さて実行にかかってみるに、男子の力勝ちて一つの井戸よりの給水にては間に合わず。ついで井戸を二つとし、これに三人の男子を向けたるに、大体給水と注水とつり合えり。かくして二回の訓練にて、十一時過ぎ終わり散会す。午後、教室に行き、昨日に続きまた書籍若干を持ち帰る。夜、柏木の井戸屋来たり、井戸掘りを約束す。約三百円以下にて掘れる由。

3月23日(月)晴天、暖気。午後一時半より如水会館にて、学振第十七特第六分科会(稀有元素)あり。山根、浅野両氏の講演あり。午後六時終わり、夕食を共にし、午後七時ごろ散会。

3月24日(火)曇天、南風強く暖気なりしが、夜に入り雨となる。午前九時半より上野学士院にて文部省科学研究費審査のための学研委員会あり。正午までに大体大学と高校方面との査定を了し、正午一同会食の後、午後、金額の締め上げを行ない、二三の修正を行ないて、午後三時散会す。直ちに教室に行く。書物を送る箱出来し居たるをもって、これに書物を詰め等して夕刻帰る。教室へ小■少佐、鈴木橋雄氏〔植物病理学、1904~1984〕等来訪。

3月25日(水)快晴、すこぶる暖気。午前十一時より教学局主催の諸学振興会の自然科学講演会(経済学部第三十八番教室)に出席。駒井、長谷部両氏の講演を正午まで聴く。午後二時教室を出で三越本店に行き、蒲団を買わんとせしも思いしものなくやめ、午後四時丸の内会館に催されたる学術研究会議総務部会に出席す。今日の議題は過日の文部省研究費査定の結果の報告および十七年度予算の件なり。午後八時散会。

3月26日(木)快晴。朝、銀座松屋へ蒲団を買いに行く。純絹9点のものは真赤な大柄にていかにも手が出でず、何とも仕方がなく3点を投げ出して二つ入りのかけ蒲団を二十四円余にて求め、ついで教室に行く。午後一時より経済学演習室にて催されたる教学局日本諸学振興委員会自然科学の講演者と委員との懇談会に出席。三時過ぎ中座して教室に戻り用事を済ませ、四時に教室を出で淡路町の一理髪店にて散髪す。

3月27日(金)快晴、俄然北風強く吹き気温急降下す。午前、大瀧氏来訪。午後一時半より教授会あり。人事決定後、予として最後の教授会なるため一場の挨拶をなす。部長よりも別辞を述べられ、ついに教授諸君より送別会を催さるることとなりしも、本月中予に寸暇なきため辞退したるが、結局来月二十二日に催さるることとなる。

3月28日(土)半晴、寒し。朝、江頭氏を訪い防空群長の後任たらんことを乞いしに、主人応召中とて断わらる。午前、富山氏、午後、小南、大槻両氏来訪。午後一時より日本化学会会計検査あり。

3月29日(日)曇天、午後小雨。午前、黒柳氏および積木氏を訪い、防空群長のことを相談す。後者は不在のため、明朝逢うことを約す。午後、教室に行き、三箱書籍の荷物を作り、午後五時より精養軒にて催されたる安藤鋭郎氏結婚披露宴に臨み、八時過ぎ帰家。蒲団包みおよび書籍一箱を宅より発送の手続きをなす。一週間を要する由。

3月30日(月)晴天、暖気。朝、新宿安田〔銀行〕に行き五百円を出す。教室にて四箱書籍の荷造りをなし、野口君に頼み運送に托す。また机上をあらまし片付ける。夕刻、河出書房の作田氏迎えに来たり、いったん日本橋の河出書房に行き、ここにて大幸、田村両氏と会い、松木氏を加え、木挽町の一料亭に行き、予のために別宴を開かる。やがて河出の主人も来たり快談し、午後九時過ぎ辞去。

3月31日(火)朝曇、のち快晴となり温度降る。午前九時半より技本第二研にて開かれたる光学硝子防曇対策会議に出席し、午前十一時中座、いったん教室に行き、なお昨日残したる後片付けをなし、午後二時ごろ教室を出で、小石川〔兄宅〕に立ち寄り暇乞いをなすつもりなりしも下女の外は誰も居られず、兄上に『名古屋市史人物篇』二冊を呈して帰家す。午後五時半より、永田町文相官邸にて開かれたる文相の資源科学諸学連盟理事招待会に出席。この機会に大臣次官■■局長等に暇乞いをなす。午後八時ごろ辞去。帰家すれば、福島龍太郎、新吾〔政治学、著者の甥、1921~〕の両氏あり。両人九時半辞去。それより入浴のうえ支度の残りをなし、臥床せるは一時に近かりき。

4月1日(水)朝快晴、午後は曇る。午前十時、下関行急行にて出発のこととし、南雄は一足先に出発、予は八時半、重き革盤を提げて家を出づ。御茶ノ水にて乗り換え、東京駅に着けるは九時過ぎ、南雄待てり。十時発は混雑の見込なれば十時二十分および同三十分を利用せよとしきりにアナウンスせり。時間来たりプラットフォームに上れば一足先に南雄割に先登にあり。予もこれに合し、待つうち列車来たり車に入る。今日は三等なれば混雑は覚悟の上なりしが、予等は幸い座席を得たるも、立ちん坊すこぶる多し。ついに便所へ行くことも難しくなる。沼津にて弁当求め、あとは身動きもできず、かくて四時半名古屋着。荷物多ければ赤帽を呼び荷を托し、出口へ出でたるに幸いタキシあり。直ちにこれに乗じて東新町の旭ホテルに入る。荷を置きて、まず田代町の椙山氏を訪う。正雄氏在宅。部屋には病院よりベッド届き居れり。またデスクも備えられ、買うべきは椅子だけなり。六日ごろより来るべきことを約し辞去。ホテルに戻り夕食し、夕食後町へ散歩し、八時過ぎ帰宿。

4月2日(木)快晴無風暖気。予は午前九時少しく前、宿を出で大学に行き、南雄は上田氏の新居を訪う。大学にて総長、庶務課長等に着任の挨拶をなし、応化の教員室にて菅原、佐野、山崎の諸君に逢い、十二時帰宿す。南雄もちょうど少し前に帰宿し居り、小憩の後、昼食および買い物のため外出し、まず丸善にて昼食し、ついで松坂屋に行き回転椅子を求めんとせしも、売約済みのもの一個ありしのみ。やむなくただ洋服掛けを求めしのみにて立ち出で、中井デパートを覗きしもなし。一時半ごろ帰宿し、重き革盤を提げ、電車にて再び椙山氏を訪いこれを預け、ついで東山公園に出で植物園を見る。折からの好晴に加うるに桜花満開なれば行楽の人多し。園内の温室を覗き等し、電車終点に引きかえせば電車待つ行列長く続けり。心長くこのうちに入りて待つうち、三台目くらいに乗れたり。かくしていったん帰宿せしは四時過ぎなり。今日朝より奈良のホテルや他の旅館等に電話して室を申し込み置きしも、皆断られたり。やむなく明朝発して奈良に行くこととし、五時ごろまた宿を出で夕食に出かく。電車にて本町に出で精養軒にて夕食し、日なお高ければお城を見る。ただし門内には入れず、ただ概観を遠望したるのみ。かなり徒歩して電車線に出で、柳橋にて乗り換え、帰宿せるは七時過ぎなり。今日はじつによく歩きたり。東新町停留場の傍らにて寿屋という家具屋を見出で、入りて見るに回転いすあり。二十三円八十銭にて一脚を求め、椙山氏方へ送らしむ。夜九時ごろ、京都の山崎氏より電話あり。京都に宿あり如何とのこと、早速頼む。これにて一安心す。

4月3日(金)快晴、すこぶる暖気駘蕩たる春日。午前七時少しく過ぎ宿を出で、東新町の停留場に至れば電車待つ列長く続き、まず度肝を抜かる。何台目かにようやく押し込まれ、駅前の広場は人の山なり。再び度肝を抜かる。ようやく人波わけて二等の切符を奈良まで求め、改札口に至れば菅原氏待てり。急ぎ車に入る。車内は二等ゆえすき居たり。沿道春色濃やかなり。笠置あたり桜花爛漫。かくて十時三十分奈良着。先を急ぐゆえ大■駅まで人力車に乗らんと車を呼ぶ。三台連ねて少しく走り、車をつけたるは油阪の駅なり。車屋ここなりとて、吾人を下ろして遁げるごとく去る。一台五十銭ずつとはひどく田舎者扱いなり。油阪駅も大行列ゆえ、これは駄目と終点まで歩く。ここにて荷物を預け、西ノ京までの切符を買い、西大寺にて乗り換え、十一時過ぎ西ノ京着。まず薬師寺に行く。薬師寺は今日お会式にて寺内に露店二三出で居るも、至って閑散なり。金堂内の薬師如来をつくづくと拝す。今日は造花等飾りかえって鑑賞には具合悪し。東堂の観世音を拝し、三重の塔をつくづくと見る。晴れ渡れる青空にくっきりと美しき輪郭を示し、去りかねたり。薬師寺を辞し、停車場近くの家に腰を下ろし、亀山駅にて買いたる報国弁当というを開く。パンの皮のごときものなり。しかし腹の足しにはなる。弁当後、北に道を取り唐招提寺を訪う。相変わらず閑寂なり。金堂および講堂を見、停車場に戻り、奈良行の電車にて奈良に帰る。人出いよいよ盛んなり。群集に混じりて春日神社境内に出で、帝室博物館に入る。国宝級の仏像多数を観賞し、立ち出でたるは三時半なり。大■駅まで戻れば山のごとき群集なり。果たして帰れるかと疑うばかりなり。人にもまれもまれてどうにか切符求め、車に入れば間もなく発す。京都に着せるは四時半なり。ちょっと七条の本願寺に行き等し、停車場に戻り、西口に待てば六時ごろ山崎氏車にて迎えに来らる。伴なわれて南禅寺の吉富楼に入る。ここにて山崎氏父君より夕食の馳走になり、九時過ぎ山崎氏去り静かに眠る。

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4月6日(月)曇天、寒し。夕刻より晴模様となる。午前九時前、菅原氏来訪。江上〔不二夫、生化学、1910~1982〕、森野氏を伴ない、ホテルを出で大学に向かう。停留場にて数学、物理の人々と一緒になる。大学にて一同に逢い、午前十時より大講義室にて学生および教官諸君を前に一場の挨拶と訓辞〔柴田雄次「名大理学部第一回入学生への訓辞」〕とを述べ、終えて数物化に分かれ、各主任より細点にわたる注意をせらる。午後一時、一同東山に行き建築場を視察し、生物学の仮教室(工学部応化)に集まり、再び教官諸君に挨拶し散会す。予は菅原、宮原、毛利の三氏と植物園動物園を訪い、五時ごろ帰宿。直ちに夕食に出で、観光ホテルグリルに入り、日ごろの枯腸をいやし、帰途二三買い物して六時帰宿。直ちに入浴す。

4月7日(火)快晴、温度なお低し。午前八時半、支払いを済ませて旭ホテルを出で、電車にて田代町の椙山氏を訪い、今日より推参する由を言い、荷物を置き多少荷物の入れ代えを行ない、九時半ごろ同家を出で教室に行く。原事務官と事務上の打ち合わせを行ない等するうち昼となる。昼食後、教室を出で松坂屋に行き名刺および挨拶状の印刷と印判の製作を頼み、ついで電車にて鶴舞公園に出で、医学部に田村学長を訪い、公私ともに多大の世話となれる礼を述べ、暫時雑談の後、医学部の車にて送られ教室に戻る。科学の連中、学生のための実験室の整備に大わらわなれば、これを応援し午後五時過ぎ椙山氏方へ帰る。幸い蒲団到着し居り、第一夜より自分の寝具を用い得たり。

4月8日(水)快晴、温度やや昇る。朝、覚王山郵便局に立ち寄り、手持金のうち三〇〇円を預け、貯金通帳を作ってもらう。教室にて渋沢総長に逢い、その後の報告をなす。そろそろ判子捺し始まる。夕刻、朝日記者来訪、顔合わせをしたしとの希望。帰途、栄町付近にて手回り品二三買い物す。夜、覚王山で下車後、途を聞き違え二三度尋ねようやく帰家す。

4月9日(木)快晴、暖気。朝、東新町寿屋に立ち寄り防空暗幕の切地を買わんとせしに、切地の幕は売ることできず、製品とすれば無点なりとのことに、結局カーテン地に裏に黒切れを付けて仕立てさせることとし、二十二円にて二三日中に出来のはず。午後二時より、菅原、宮部、黒田三氏と設備費三十万円分配の件を話し合い、一応の結論に到達す。夕刻、松浦新之助氏来訪。教室の帰途、栄町にまわり一二買い物す。

4月10日(金)雨天、夕刻より雨やみ、西北風強く温度降る。午前十時より無機の初講義をなす。午後一時より教授助教授連合の打ち合わせ会を行ない、理学部規程改正の件等を議し、ついで午後二時半より教授会に移り、評議員の選挙を行ない、高嶺、菅原両氏当選。なお、宮部氏に学生主事を依嘱する件の了解を求め、午後三時半散会す。教室の帰途、松坂屋に立ち寄り、去る七日に注文せる名刺および挨拶状等の出来せるものを取り、スリッパ、靴下等を買う。

4月11日(土)快晴、風静まりたるも温度なお低し。総長が理学部教官に逢いたしとのことにて、午後一時より一同会議室に集まり総長と会見。総長より挨拶あり、座談的に種々建築遅延の申し訳あり。午後三時会見を了わり、ついで総長および津上氏と東山へ行く。先刻の会見に洩れたる生物の連中はここにて逢う。一同、敷地内をここかしこと歩き、最後に鑿井のポンプ試験を見、五時ごろまでありて帰る。予は総長と同車にて椙山氏下まで送られ帰る。

4月12日(日)曇天、温度やや昇る。午後ちょっと小雨あり。夕刻より東南の猛風吹き出づ。午前九時半ごろ家を出で、東新町の近くなる小川町の大法寺に詣で、父上を始め祖先たちの墓を展し、ついで松山町の三浦氏の墓参をなし、ついで上田〔良二〕氏を訪うべく鶴舞公園に出で、さて地図を頼りに同氏の新居東畑町を訪ねしが、なかなかわからず散々歩き人に聞き聞きして、ようやく十一時ごろ探し当つ。ところが■■■の女中に聞けば、上田夫妻は予を訪うべく早朝家を出でたりとのこと。やむなく引き返し、ちょうど昼となりたれば観光ホテルグリルにて昼食し、食後ぶらぶら歩き一二買い物し、寿屋に立ち寄りカーテンの出来せるを取り(二十二円五十銭)、東新町より大曽根行に乗りて山口町下車、徳川美術館を訪う。二三蒔絵の道具品以外にはこれはというものなし。刀剣多けれども、これは予にはわからず。陶器の説明に三島を三鳥と書ける等はどうかと思う。小雨降り出でたれば急ぎ帰家す。幸い雨やみしも風烈しく吹き出づ。夕刻、和子より電話あり。今夜行くとのこと。ちょうど夕食終わりたるころ、上田両人来訪。まだ明るかりしゆえ、部屋よりの眺めに感心せり。一時間ほどありて辞去す。これが初訪問客なり。

4月13日(月)快晴、暖かし。今日は各方面へ挨拶まわりをなすべくモーニング一着に及び登学。大学より林秘書係長同行。車を出してもらい十時少し前に出かく。まずもっとも大学に近き名古屋控訴院および地方裁判所を振り出しに、軍部、市庁、県庁等をまわり、朝日新聞で昼となり、車をホテルに着けて食堂にて昼食し、午後は熱田宮庁、造兵廠、専門学校方面をまわり、午後三時、覚王山まで車を回してもらい帰家す。直ちに衣服を換え旅行用の小荷物を携え、また家を出で名古屋駅に至り、同行の山崎君を待ち合わせ、午後五時八分発の関西線にて奈良に向かい、七時四十四分着。徒歩してホテルに入る。ホテルには文部省の青戸課長、大岡技師、帝室博物館の溝口氏等あり。溝口氏の美術スカンダルの面白き話に十時ごろまで話し込む。

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4月15日(水)快晴、気温大いに昇る。午前、例のごとく教室に行き、昨日の約によりて昼、観光ホテルに兄上を訪い、林〔孝三、植物生理学、著者の姪の夫、1909~1995〕氏、上田夫人を加え、四人にて会食し、午後、兄上と林氏とを伴ない東山に行く。応化教室に生物連あり。高嶺氏はじめ一同と敷地内を散策し、三時過ぎここを出で、電車にて帰る。林氏は四時五十分にて帰京の由。予は栄町にて下車。一理髪店にて散髪す。夜九時過ぎ、朝日新聞記者来訪。法隆寺問題にて記事を取りに来る。これは昨日、青戸課長が極秘にしくれと言いし事項ゆえ、極力問題を外すよう話す。

4月16日(木)朝晴れ、次第に曇り昼ごろより雨天となり、夜に入るもやまず。温度は昇る。朝、栄町の日銀に立ち寄り、先日渡されたる赴任旅費百二十円十銭を受け取る。ここにて菅原君に逢い、ともに教室に行く。午後五時より会議室にて、愛知県科学技術振興会の郷土物故科学者顕彰委員会を開く。予、委員長を務め、出席の阪谷、吉川、石田、安藤、若山、藤川の諸嘱託と種々協議し、とりあえず本年度の事業として吉雄南皐(化学・銃砲研究者、医師)〔1787~1843〕、水谷豊文(本草家、医師)〔1779~1833〕、竹内修敬(和算家)〔1815~1874〕の三人を顕彰するため、それぞれ安藤、吉川、藤川三氏に伝記および業績概要の執筆を乞うこととす。一同会食し雑談の後、午後七時過ぎ散会。今日は朝好天気なりしため傘を携えず大いに困りしが、生源寺氏の部屋より同氏の傘を借りることとしたるところ、運転手が木炭自動車を出してくれ、覚王山停留場まで車で送られ帰りしため大いに助かる。

4月17日(金)快晴、夜来北風烈しく終日やまず、ために気温急降下。朝、登学の途にて宮川〔一郎〕教授〔応用化学〕に逢う。同氏も御棚妻の住人の由。昼、亀山〔直人〕教授〔電気化学、1890~1963〕来訪。島村、有山、佐藤、内田〔清一郎、動物学、1916~1985〕諸氏の辞令来たる。島村、有山両氏には手渡す。帰途、栄町松坂屋に立ち寄り、先日注文し置きたる印判の出来せるを受け取る。

4月18日(土)快晴、朝北風かなりに吹きてすこぶる寒かりしが、次第に暖かくなる。午前八時半、家を出で田代の通を徒歩にて東山へ行ってみる。二十分はかかる。応化教室に生物の人を訪う。山本、石田の両氏あり。山本氏に佐藤氏の辞令を預け、高嶺氏に渡すよう頼み、山辺の吾人の建築場を一巡して後、本山橋より電車にて教室に行く。午後二時過ぎ、部屋にて講義原稿書きをなしつつありしに、突如砲声数発硝子窓を震わせ、同時に飛行機の爆音近しと聞こゆ。窓より眺むれば高度三百米以下にて双発の爆撃機いとも悠々と飛び行く。はて演習か、それにしては甚だしく実感のこもれる演習かなと思い居りしところへ山崎君入室、いま隣の軍隊に煙があがっていますと。図書室の窓より顔を出すと、なるほど瀬戸電車の濠を隔てた近き所より盛んに黒煙上れり。これはゆゆしき大事なりと直ちに机上を片付け、帽子をかぶりて外へ出で、最北端の化学実験室に行く。菅原氏すでに学生の実験を中止せしめ、一同を率い散らぬようまとめ居られたり。学生には適当に他を応援するよう命じ、火の手を見てあればいよいよ激しく、大学は風下なれば煙頭上を蔽うも、幸い風収まり居たれば、火の粉等来たらず。とこうするうち、あらゆるホース持ち出され、また手押しポンプも位置につき、大学の防備は大体万全のごとくなる。そのうち濠の対岸の松林の下草に火つきて燃え初めたり。これは危険と学生濠を越えて消火につとむ。そのうち一時間もして市内のポンプも追々来着し、学生も疲労の様子見えたれば消火は専門家に任せ、学生を玄関前に集まらせ中村〔龍輔〕教授〔航空学、1892~?〕および総長より慰労の言葉あり。それぞれの班より居残者を決めて散解せしめたるは四時半ごろなり。かくのごとく一二機の敵機の蹂躙に名古屋の大空を任せてこの大火事を引き起こし、毎日飛び居りしわが空軍はついに姿を見せず。また空襲警報のサイレンは大いに火の手が上って敵機が姿を消したるころようやくその不気味な響きを立て初むる等、まさに落第点なり。午後五時半ごろまでありて帰る。午後七時に空襲警報解除のサイレンなる。東京も空襲を受けたるも、敵機九機撃墜の報あり。その他二三の都市が空爆を受けたる様子なり。敵機に重慶のマークを見たる人ありとのこと。いずこより来たれるか。

4月19日(日)快晴、午後急に気温昇る。今日は日曜なれども教室に行く。途に菅原君に逢い、ともに行く。すでに山崎氏あり、学生を指揮して書籍を旧位置に収め居られたり。午前中、高嶺、黒田、中山、小野、吉田、工藤の諸氏来会。これら諸君は午前中に去られ、予は菅原、山崎両君と学生食堂にて昼食し、午後は総長より能楽に招待せられ居たれば、午後一時ごろより出かけん心構えにて教室に戻りつつありしに、十二時十五分また空襲警報響き渡る。すわこそまた来敵と一同緊張し、それぞれ手わけして部署につく。しかし今日は、晴れ渡れる蒼空は味方の飛行機の爆音のみにて、敵機は影もなし。外を歩き回るも疲労するのみなれば、部屋に戻りて読書等す。静かにして眠気を催すほどなり。午後二時四十五分に至りて解除のサイレン鳴る。少し遅けれども能楽堂に行き見んとて、諸君と別れ電車にて新栄町に至り、徒歩して布池の能楽堂に行く。表は締まりて静まり返り居れり。裏にまわり事務所にて聞けば、今日二時過ぎに警報解除あれば催すはずなりしも、このことなかりしため秋季まで延期せりとのこと。また新栄町に戻り、電車にて帰る。途に覚王山日暹寺〔1949年、日泰寺と改名〕に参詣す。思いのほか荒涼たる寺なるに一驚す。

4月20日(月)昨夜中東の猛風吹き通したるが、今暁より雨となり終日やまず。朝、東畑町に上田夫人を訪ねたるに、上田氏昨夜出発せるなりと。じつは土曜に出発せりと思いたれば、空襲にてさぞ心細かり居らんと慰問のためなりしに、空襲中は上田氏在名せる由にて安心す。教室の帰途、菅原、山崎、佐野の三氏と広小路通の■■の店にて化学天秤を見、二百瓦のもの四五台ありとのことにて、一台ずつ教室に持ち来たらしめ、テストのうえ及第せるものを買い取ることとす。

4月21日(火)曇天、朝小雨。午前八時二十分発にて帰京のため、早起きし支度を調え、大小の革盤を提げ、午前七時十五分、椙山氏方を出で、覚王山停留場より電車にて名古屋駅に向かい、切符求め行列に入る。ちょっと切符を見れば新溜行なり。急ぎ戻り改札口にて小言を言い、代えてもらう。定刻発車。浜松、静岡、沼津の三ヶ所にて弁当を買い、静岡のを食う。かくて帰家せるは三時半ごろ。新築は建前済み立派に立ちあがれり。空襲の話にて互いに驚き合う。夜、伯林の〔徳永〕康元氏〔言語学、著者の甥、1912~2003〕より電話来る〔徳永康元『ブダペスト日記』285頁参照〕。〔徳永〕元子、よし子氏〔康元氏婚約者〕来たり、いろいろ話す。康元氏、目下シベリア通過の査証請求中なりと。午後四時半ごろ、また警戒警報出でたるも、間もなく解除さる。

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4月28日(火)雨天。六時半、目覚め洗面。七時ごろ岡崎にて弁当求め朝食を済ます。七時五十七分、名古屋着。赤帽に荷を托し、車を探せしも全くなし。やむなく長蛇の列に入り電車に乗る。雨足繁く、相当に濡れる。覚王山より椙山氏家まで、またいっそう濡れ鼠となる。小憩の後、衣服を換え、午前九時半ごろより教室に行く。午前中は判子捺しに費やす。午後三時半ごろより菅原、佐野、山崎三氏と東山へ行き、建築の進行状態を視察す。第一の建物はすでに大体竣工し、物理の有山、宮部両氏および数学の一同はここに陣取れり。第二の建物は講義室のみ使用可能なり。他はまだまだ。夜、内田清一郎氏来訪。

4月29日(水)快晴、無風。午前九時より、医学部講堂にて天長節祝賀式あり。すべて東京の式と大差なけれども、君が代の合唱の伴奏がテンポの無茶に早いピアノなるため、合唱はなはだ不体裁なり。式後、菅原、山崎両氏と徳川美術館に催され居る尾張物故先哲遺品展覧会を見、ついで徳川園を訪い、山崎氏に別れ菅原氏とともにアサヒビルのアラスカにて昼食し、のち同氏を伴ない帰家し、雑談に時を移し、同氏は四時過ぎ帰家せらる。夕食後、あまり天気よく、また月美しきまま、初めて近所を散歩す。今日、椙山氏へ食費および部屋代として金六十円を渡し、女中に十円の心付を与う。かねがねの懸案なりしがなかなか椙山氏より申し出なく、今日に至り一日一円の割にてよしとのことなりしも、それもあまりなれば一日二円五十銭の割とし、他に部屋代二十円のつもりにて、十六日分六十円と計算せり。

4月30日(木)朝曇り、のち五月晴れとなり、新緑に渡る風■し。朝、教室へ高嶺氏来訪。午後一時半ごろより、応化の外山〔修之、応用化学、1896~1980〕、高木〔達彌、応用化学〕、香川〔毓美、化学、1909~1978〕の三氏、化学の菅原、佐野、山崎氏等と熱田の東邦瓦斯を訪問し、過日の空襲の話を聞く。一ホルダに八十余個(天蓋に六十個、側壁に二十数個)の焼夷弾命中し瓦斯に引火して、あたかもリングバーナーのごとき観を呈せりと。しかし、いったんガスの流入および導出口を閉鎖し、ついで導出を行ない内圧を減じて消火し得たりと。この間約四十分、消失瓦斯概算二万立方米なりと。焼夷弾は約五十■、重量一・七キロ、■六角形にて、半ば鋼製、内にMg(25%)Fe2O3(75%)の粉末を充たし、火薬にて発火するごとくせり。これを一束二百五十六個を鋼索にて束ね、一度に投下するなりと。このあたりに幅四十米、長二百米の区域に二百数十個落下せりと。飛行機の時速六百基として一分十キロ、一秒に一七〇米、即ち一秒に一束分を落とせるものと考えらる。この焼夷弾はエレクトロンにあらざるをもって、水をもって容易に消し得べく、少数ならば恐るるに足らぬ代物なり。なお、ホルダーの周囲および材料置場および近隣の命中状態等を視察し、午後四時いったん帰学し、小穴君に松本より来たれる菓子の馳走にあずかり、五時教室を出で、本町通りにて買い物して帰家す。

5月1日(金)曇天、昼ごろより小雨となりしがやがて雷鳴あり。夕立となりしも夕刻より晴る。温度降る。午前八時半より医学部講堂にて新入学生宣誓式あり。国民儀礼の後、医工理の各新入生総代の宣誓文朗読あり。ついで総長は大学令第一条を朗読し、その後一場の告辞を述べて式を終わり、さらに午前十時より同じ式場にて創立紀念式あり。同じく国民儀礼の後、総長の勅語奉読、式辞、万歳唱和ありて式を終わる。ついで各学部教官一同、控室に着席し、茶菓の饗あり。同時に理学部教官各自名乗りを上げ専門を告ぐ。ついで他学部の教官もこれに倣い、全部終われるはちょうど正午。これにてめでたく散会す。予は菅原氏、宮部氏、有山氏、早川氏等と丸善にて昼食し、午後散策せんとせしが、あたかも雨降り出でたればやめて、菅原氏とちょっと教室に立ち寄り、文部省職員録を取り帰家。挨拶状の残りを書き、百枚全部を終わりたれば、夕食後散策かたがた郵便局に置き来たる。

5月2日(土)朝靄深かりしが次第に晴れて好晴となる。今日は名大阪大競技大会の日にて講義を休む。午前、教室に長岡正男氏〔光学技術者、半太郎の次男、1897~1974〕来訪。午後四時、教室を出で、長岡氏滞在中の観光ホテルに行き、地下の理髪店にて散髪し、五時半ロッビーにて同氏に逢い、相伴ないてアサヒビルの八階アラスカに行き共に夕食し、食後少しく町を歩き、栄町にて別れ、七時半ごろ帰家す。明日は同氏の案内にて多治見在の粘土山を見に行く約束をなす。

5月3日(日)終日大雨、温度すこぶる低し。今日は長岡君の案内にて陶町の粘土山へ行くはずゆえ早起きをしたるが、雨足繁く到底山歩きの日にあらず。しかし時間(午前八時半鶴舞駅発)までには雨やむこともあらんかと支度だけは調えたるになかなかやまず、ついにやめとす。しかし七時半ホテルに電話したるに、長岡氏は多治見に向け出発せりと。雨に閉じ込められたれば、挨拶状書きに費やす。即ち先にここの松坂屋に注文し、あまり下手なれば破棄と決したる印刷物をまた利用することとせるなり。午後ちょっと雨小やみとなりたれば町に買い物に出でしに、また大降りとなりさんざんに濡れる。夜、あまり寒ければまた冬服を出して着る。

5月4日(月)曇天。午後一時半より理学部教授、助教授、講師一同を東山新築の事務室に集め、東山防護分団組織のことを議す。これは先に事務系等に立てたる案ありしをもって、これを議題として協議したるが、大体これを認むることとす。なお来週より判任官にて宿直をなすこととなる。かつ警報ある場合はできるだけ団員は参集することを申し合わせ、なお二三の件を議して五時ごろ散会。予は徒歩して帰家す。さて椅子に腰を下ろし茶などすすり居りしに、下に警戒警報との声聞こゆ。たったいま警報あらば参集と定め来たれるばかりなれば、ちょうど出でたる食事もそこそこ、ゲートルつけて出かけ、また徒歩にて行く。会計事務の松井、長谷川両氏なおあり。警報出でたることを告ぐれば、彼らも驚き居れり。やがて小野氏来会、四人して七時十五分まで居りしが誰も来たらず、松井、長谷川両人にも帰りてよき由を言い、予等も引き上ぐ。

5月5日(火)快晴、西風強く温度低し。午後一時四十分、警戒警報解除せらる。

5月6日(水)晴天。午前八時過ぎ、また警戒警報出でしが、午前中に解除となる。午後五時半より南久屋町の翠芳園にて、新愛知の科学振興会新旧理事送迎会あり。予も赴任前理事に推薦せられ居る由聞き居りしが、理事長ということになる。専任監事として応化の宮川教授が就任せられ、企画に当たらるることとなる。この翠芳園は神野氏の旧宅の由にて、建物ももちろん凝ったものながら、庭木の美しさはあたかも新緑もさることながら大いに鑑賞の価値あり。午後八時半辞去。

5月7日(木)昨夜より今暁にかけ大雨あり。午前中はやみ居りしも昼ごろよりまた大雨となる。梅雨のごとし。今日九時より十時まで、東山新校舎にて無機の補講をなす。あまり休み多きゆえなり。当分続けるつもりなり。

5月8日(金)快晴。西風強し。昼食を理学部の会食日とし、今日より毎週実行することとす。総長、庶務課長も出席。十九名集まる。会食後、〇時五十分より第一講義室にて、生源寺工学部長大詔奉読式を挙ぐ。午後二時半より会議室にて、学徒報国隊長会議あり。防空に関する二三の事項を協議す。先日の空襲の経験より来たれる実際問題のみなり。午後五時散会す。

5月9日(土)快晴、依然として西風強し。午前、名高商の小原、近藤両教授来訪。今朝の新聞にて、去る六七両日ニューギニア東南海上にて大海戦あり、米英連合艦隊に対して大攻撃を加え、米主力艦カリフォルニア型と航母サラトガ、ヨークタウンの三隻を撃沈、英の主力艦ウォースパイトに大損害を与え、キャンベラ(大巡)を大破せる由の報道あり。じつに驚くべき大戦果と言うべし。今夕刊にこれが世界に対する反響もすでに表われ居れり。また、今日夕のニュースによれば、さらに敵の小型巡洋艦大破、駆逐艦撃沈を追加し、なお敵八十九機を撃墜せるが、わが方も給油船を改造せる小型航空母艦と飛行機三十一機を失えりと。

5月10日(日)快晴、静穏、五月らしき日。午前九時半、家を出で徒歩して東山に行く。長谷事務員あり、暫時雑談してここを出で、電車にて栄町に出で松坂屋に行き、先日招宴の令嬢の印刷を頼まんとせしが急に出来ずとのことにてやめて立ち出で、中央亭にて昼食し、食後少しく町を歩き印刷屋を探したるが幸通本町にて一軒を発見し、ここに頼み十二日校正を見る約束をなし帰途につく。ところが電車停電し、折から東山への遊客満員なるに、十分くらい停電しては一二町進みまた停電、これを繰り返すこと数度、覚王山までに一時間を費やせり。

5月11日(月)快晴、静穏。今日より三泊にて工学部および理学部の学生、高師ヶ原の廠舎に野外演習に出発するはずゆえ、今日は出発を共にし、午後までこれを見学する約束を佐野、山崎両氏と結びたれば、午前七時過ぎ家を出で、栄町にて神宮東橋行に乗り換え、名鉄熱田駅前にて下車せるは八時なり。ちょうど山崎氏も来会、豊橋までの切符を買いて待ち、出発は九時なるが混雑するゆえ早くプラットフォームに入る。九時十分前ごろ学生来着。学生のためには別の車を連結すとの話なりしがそのことなく、たださえ満員の車超満員となり身動きもできず。一時間と十五分ほどにして豊橋着。佐野君はついに姿を見せざりしが、一学生の伝言にて次の列車にて来るとわかり待つこととす。この時また警戒警報の掲示あり。学生は駅前に集結し、隊伍を整えて進発す。予等は駅にて待つこと二十分ほどにして佐野氏来着、駅前より出づる高師行の電車に乗るはずなるが、出発は十一時とのことにて少しく待ち、また満員の電車に乗る。十余分にして高師に着。ここは松原の内にして、松原を抜ければ廠舎あり。裏門より入りて表に抜ければ、雄大なる高師ヶ原眼前に展開す。東京付近には見られぬ広濶なる練兵場にして、このあたりに特有なる赤き地肌と松林とこれを限る連山との風光また佳絶なり。やがて徒歩にて来たれる学生隊も到着し、瓦田大佐より種々訓示を受く。やがて昼となり、食堂にて兵食の食事をなす。ところが人数の勘定違いありて少し不足を来たし、五人は遠慮せんとせしが、結局三人に二人分ありとのことにてちょうどよからんとて、二人分を三人にて分かち食う。午後はいよいよ隊を編制し、二時ごろより実戦の隊形の説明等あり。原に出で、配属将校の説明の下に行動を初む。吾人も三時二十分までこれを見学し、ここを辞して電車にて豊橋に戻り、午後四時十五分発の特急にて出発、熱田に着せるは五時半。神宮前より市電になかなか乗れず、ようやく割り込みて栄町下車。両君を誘い中央亭にて夕食し疲労をいやし、少しく通りを歩き、別れて帰家せしは七時十五分ごろなりき。午前、警戒警報は友軍の飛機なりし由にて、昼ごろ解除となる。

5月12日(火)雨。朝、栄町日銀に立ち寄り、大学より渡されたる赴任旅費三百十円を受け取る。午後、武村印刷所に行き、日曜に注文せる挨拶葉書の校正をなす。今日夕刻出来すとのことにて、帰途また立ち寄りしに、百五十枚の挨拶状と昼に注文せる封筒百枚の印刷出来せり(六円二十銭)。

5月13日(水)晴天、温度大いに昇る。朝、徒歩して東山に行き、事務室に顔を出し用を足し、建築場をまわりて見る。南側のほうも大分に進捗し、実験室以外は間もなく使用し得べし。水道も十六七日ごろには給水得べく、瓦斯もそのころには用い得べしとのこと。まず今月一杯にて大体移転可能となるべしとのことなり。生物のほうに顔を出し、高嶺、島村、山本、石田の諸君と暫時雑談し、山本氏のこの付近のファウナ〔動物相〕の採集を見学し、十時過ぎ東山を辞し、西二葉町の教室に行く。

5月14日(木)朝曇のち晴れ。菅島臨海実験所〔著者は所長兼務〕訪問の約をなしたれば、予定の時間すなわち午前八時三分名古屋駅発に間に合うべく午前七時二十分ごろ家を出で、電車にて駅に行く。山崎氏すでにあり。追々に集まれる面々は、菅原、宮部、高嶺、佐藤、山本、石田、島村の諸君。予定の汽車に乗じ、鳥羽に着せるは十時四十分。直ちに船着場に至り、実験所のモーターボートに乗り菅島に向かう。二十分ほどにして島に着く。椙山、内田両氏はすでに在島せり。実験所は小湾を望んで水辺に聳えたち、松林に囲まれその後の丘上に寄宿舎あり。まず実験所内に入りてその施設を見る。階下に四室は実験室の設備あり。階上一室は大にして実習室たるべく、他は末施設なり。いまだ実験所として完備せりというべからず。次第に改善せざるべからず。裏の丘上の寄宿は七八人までは宿泊し得べし。一同食堂にて昼食を取り、小憩の後海岸に出で、磯を漁りていろいろの収穫をなし、午後二時切り上げ支度をなし、二時半ごろここを辞し、椙山、内田両氏を残して■■す。風強く盛んに波を蒙る。上陸して停車場に至れば午後三時発に間に合う。これに乗り名古屋に五時四十五分着。余は高嶺氏に教えられたる南桑名町の二葉にて夕食し、七時半ごろ帰家す。

5月15日(金)快晴。午前九時ごろ教室に井口昌亮氏来訪。午後は同氏を山崎氏案内して東山に行き、夕刻戻り来たる同氏、北京の国立大学への赴任の途なれば送別の意味にてホテルグリルにて夕食を共にし、後少しく街を歩きて別る。昼は理学部会食。

5月16日(土)快晴。午前八時二十分発にて帰京す。今日は弁当を窓口買いとなりしが、かえって円滑なるがごとし。帰家せるは三時十五分ごろ。

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5月22日(金)快晴、気温昇る。午前十時半下関行にて帰名すべく午前九時家を出で東京駅に行き、予定の車に乗り午後五時名古屋着。直ちに椙山氏方へ帰名の電話をかけ、ホテルグリルにて夕食し、七時前帰家す。直ちに新栄アパートの菅原氏に電話したるに、今朝東京へ向かいたりと。

5月23日(土)快晴。午後四時過ぎより医学部講堂にて文化講演会あり。講師は元外務大臣有田八郎氏〔外交官、1884~1965〕にして、外交に関する経験談と大東亜戦に関する若人の覚悟につき一時間半にわたって熱弁を振るわる。終えて総長の案内にて三学部長と勝沼〔精蔵〕院長〔1886~1963〕および萩野〔端〕学生主事と魚の棚のお納屋にて会食。午後八時半ごろ散会。

5月24日(日)午前曇天、午後快晴、温度高し。有田氏東山新築地訪問のはずなれば、午前九時半ごろ家を出で徒歩にて東山に行く。渋沢総長すでにあり。少しく待つうち萩野氏大学の自動車にて有田氏および令嬢山室夫人およびその三児を伴ない来たる。渋沢総長とともに有田氏を案内して建築の一部および敷地を達観せしむ。三十分ほどして同氏一同は動植物園見物のため去る。予は渋沢氏に別れ東山終点より電車にて町に出で、ちょうど昼なれば栄町の中央亭にて昼食し、買い物のため街を歩き、午後二時帰家す。今日より部屋へラジオを一つもらう。三星デパートにて二十六日夜九時十四分発の切符を買う。

5月25日(月)晴天、暖気。午後一時より教授会を開催す。これは二十二日に開くべかりしものを、余の風邪のため延期せるものなり。人事として物理より京大助教授坂田昌一氏〔理論物理学、1911~1970〕を、数学より阪大助手坂田良次氏をそれぞれ推薦あり。この両氏は兄弟なり。次回に決定することとす。また、物理より助手早川〔正巳〕氏を講師とする件の提出あり、一同に可否を問い、一致にて可とすることとなる。なお四五の報告事項ありて、二時半散会す。

5月26日(火)晴天、温度高し。午前十一時ごろ、東京科学博物館の朝比奈〔貞一、化学、1901~1978〕、佐竹〔義輔、植物分類学、1902~2000〕両氏来訪。午後一時十三分にて帰京するとのことにて何の歓待もできず、昼弁当を共にし、間もなく両氏去らる。予は一昨日、今夜九時十四分発の寝台を買い置きたれば、午後八時家を出で駅に至り、少しく待ちて予定の車に乗り、直ちに寝台に上りて寝ぬ。

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5月29日(金)快晴、初夏の気候、夜満月清し。午前八時名古屋着、直ちに帰家。荷物を置きまた家を出で、大学に行き講義をなす。

5月30日(土)快晴。午後五時ごろ新愛知の社員の出迎えを受け、宮川教授とともに商工会館に行き、まずその地下室莱香林にて社員の人々、科学振興協会理事の鶴見、小原、近藤、宮川の諸君と会食し、食後階上の大講堂にて水の化学と称する講演をなす。講演後映画ありしも見ず。九時半、社の車に送られて帰家。

5月31日(日)半晴。朝、上田氏より電話あり。〔柴田〕承二氏〔著者の甥〕在名中とのことにて、今日午前東山にて逢うこととし、午前九時半ごろ家を出で徒歩東山に行く。上田夫妻、承二氏、武田の渡辺氏等あり。承二氏はこの東山山林中にて望みの地衣を得たりとのこと。校舎二階にて小憩し、十一時ごろ〔?〕一同徒歩して帰途につき、バスの停留場にて上田夫妻は帰家。今日昼、観光ホテルグリルにて逢う約束し、承二氏と渡辺氏とを伴ないていったん帰家。小憩し十一時また家を出で、電車にて観光ホテルグリルに行く。上田夫妻の来会を待ち、一同会食し、食後町を少しく歩き栄町にて一同と別れ、余は家に帰る。承二氏は午後三時五十何分かの燕にて帰京の由。

6月1日(月)晴天。教室への途に日本銀行に立ち寄り、学研より送り来たれる旅費七十三円を受け取る。

6月2日(火)晴天。朝、東山に行き建築進行の様子を見る。実験机も追々据え付けられつつあり。しかし、なにぶん電気の問題が解決つかぬうちは全く引越しも不可能ならん。

6月3日(水)半晴。午前、東山の新築へ前愛知県知事田中広太郎氏〔1888~1968〕来訪とのことにて、午前九時過ぎ行く。すでに原庶務課長あり。暫時待つうち総長同氏を伴ない来着。部長室にて少時休憩の後、校内巡視せらる。同氏は在任当時名大建設の企図をもって熱心に中央に運動し、ついにこれを実現せしめたる名大の功労者なり。田中氏を送りたる後、初めて東山の食堂にて食事し、午後西二葉町へ行く。

6月4日(木)大雨、温度降る。今日は午前九時より東山にて講義の日なれば雨を冒して行く。講義後、西二葉町に行く。すっかり濡れたり。午後四時過ぎ教室を出で、栄町にて散髪し、一古本屋にて六体千字文という古本を求む。ちょっと珍しき本なり。

6月5日(金)朝曇、後快晴、温度急騰す。今日は理学部会食日、全員出席。午後二時半より評議会。総長より次回の総長会議に提出すべき議題につき相談あり。その他の件二三の協議をなし、午後四時四十分散会。七時のニュースにて、去る五月三十一日、帝国海軍特殊潜航艇はマダガスカルの北端の要港ジアゴスアレズを奇襲し、英国戦艦クインエリザベスおよび巡艦アレッスサを撃沈し、また同日豪州シドニー港に浸入して米国の一艦を撃沈せる旨、軍艦マーチ入りにて大本営発表あり。いつもながら鮮やかな手の内ながら、マダガスカルとは全く驚きたり。

6月6日(土)朝晴れ後曇。昨夜蚊出でて悩まされたれば、今日教室の帰途、町にて蚊やりを買いしに、今日は涼しく蚊全く出でず。

6月7日(日)雨時々雨間あり。昨日菅原君と天候次第にて犬山に行かんと約束したるに、今朝来雲低し。しかし午前八時半、同氏より電話あり、九時半に新名古屋駅にて逢わんとのことにて、直ちに支度して一歩外に出づれば雨降り出づ。行けるところまで行かんと電車にて行けば、菅原氏すでにあり。有山氏も同行せんとて来会せらる。犬山の日本ライン下りの回遊切符を買い、九時二十七分の急行にて出発す。電車満員にて立ちん坊なり。晴天の混雑思いやらる。一時間ほどして犬山口に着き、ここにてさらに小さき電車に乗り換え、いよいよすしづめとなる。十五分ほどにて今渡に着、下車。ここは岐阜県なり。少しく歩けば木曽河畔に出で、ここに巍然たる鉄橋大田橋あり。この橋下より遊覧船、一杯の客多く三隻に分乗して河を下る。かつて斎藤拙堂〔儒学者、1797~1865〕が木曽河を下るの記として名文を残せるは即ちこの地点よりなりと。最初は平凡なる田園風景なりしも、少しく下流に至れば奇巌碁布、激潭玉を躍らせ、断崖高きところ新緑滴らんとし、岩面しばしば血のごとき杜鵑花をつけ、奇いうべからず。乗舟したるは十一時を過ぎたりしが、あたかも一時間にして犬山に着く。犬山に近づけば景また開け、はるかの丘上に犬山城の天主絵のごとくに五月雨に煙れり。上陸し橋畔のレストーラン楼上にて粗末なる昼食を取り、小憩して後、泥濘の途を歩みて城に上る。天上閣上の風景はまさに佳絶、木曽の大河を眼下に控え、対岸の翠巒呼べば応えんとす。要害というよりはむしろ風致に勝り、別荘的の城塞というべし。四方の風光を観賞して去り難かりしも、やがて下山し停車場に至ればあたかも二時三十九分の急行の出づるところ、これに乗じて帰名、電車にて帰家せしは四時ごろなりき。

6月8日(月)朝小雨、後晴れ、温度急騰。大詔奉戴日。例のごとく午後零時五十分より、生源寺工学部長の詔語奉読のもとに挙式あり。朝、三輪〔誠〕医学部教授来訪。氏は図書館長なるため、図書館に関し種々懇談し行かれたり。

6月9日(火)曇天、昼過ぎ小雨あり。昼食後、栄町に行き三星〔デパート〕にて十二日の燕の座席券を求む。午後六時より栄町安田銀行地下室の偕楽亭にて桐鯱会あり、出席す。もちろん最年長にして、次は十二回の中村氏(岡崎)あり、次は十六回の高嶺氏なり。二十人ほど出席。愛知県科学振興会にてしばしば顔を合わせたる阪谷俊作氏〔市立名古屋図書館長、1892~1977〕も第十九回の卒業生なり。それぞれ名乗り等し、和気藹々のうちに九時前散会。

6月10日(水)晴天、夕刻雷鳴、夕立あり。午後二時より教室主任会議を開き、予算を内示し、その他諸問題を懇談す。七時のニュースによれば、わが海軍はついにアリューシャン群島を襲い、陸軍とともにその一部を占領し、またミッドウェーを奇襲して米の航母二隻を撃沈し、なお飛機百二十を撃墜せりと。ただし、われも航母一を失い、航母一、巡洋艦一を大破せりと。

6月11日(木)快晴、全く夏景色。午前九時より東山にて講義。動物の内田氏応召の由。同氏へ電報を発し、明朝出名のはず。

6月12日(金)今日、燕にて帰京の計画なれば、昼食後いったん帰家す。覚王山停留場にて石田氏待ち居り、内田氏に持たせてやる国旗に署名せよとのことにて、同氏を伴ない帰家、染筆す。間もなく石田氏辞去し、入れ違いに内田氏来訪。同氏を激励し餞別を送り、同氏間もなく去る。同氏も燕にて帰京とのこと。今日は菅原、佐藤両氏も同車のはずなり。午後三時十五分前、荷物を提げ家を出で、駅に行けば間もなく改札。午後三時四十五分の燕に入る。午後六時ごろ、食堂車に菅原、佐藤、内田の諸君と食事を共にし、いささか内田氏送別の意を表す。午後九時東京駅着。帰家せるは九時半。

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6月16日(火)快晴、暑し。六時起床、支度を調え、七時岡崎にて弁当を買わせ朝食を済ます。午前八時名古屋着、帰家せしは八時半過ぎ。小憩の後、教室へ行く。途に覚王山郵便局にて三十円を出す。午後、道野〔鶴松〕氏〔化学技術史〕来訪。昨日来任とのこと。

6月17日(水)曇天、蒸し暑し。今日午後一時十七分名古屋通過の汽車にて〔徳永〕康元氏帰朝とのことなりしため、上田氏夫妻とともに名古屋駅に至り、プラットフォームにて待つ。やがて汽車来たりしをもって、二等車室、食堂等あまねくたずねたるに、氏の姿なし。あるいは一汽車おくらせたるかと、二時通過のを待ち、今度は車室に入って一人ひとり乗客を見たるも、同じく氏の顔なし。ついに苦笑して引き上ぐ。夜、椙山正雄氏来訪。内田氏出征の件を話す。

6月18日(木)豪雨終日。午前九時より東山にて講義あるため、雨に濡れて行く。講義後、直ちに二葉町に行く。午後四時より、朝日新聞の招待により朝日ビルに行く。数学の小野、植物の久保両氏を除く全部出席。最初、新聞のスタッフ連と懇談し、午後六時半より食事。食後また種々雑談。午後八時半辞去す。

6月19日(金)曇天、雨しばしば来たる。全く梅雨模様。理学部会食。午後一時より教授会。まず前会の折に提出せる物理および数学の人事すなわち坂田兄弟の件を決定し、ついで種々の雑件を処理し、午後三時散会。次回を七月十日とす。

6月20日(土)曇天。学生の実包射撃のため休業を利用し、化学教官一同と蒲原および清水の日本軽金属の工場見学をかねて計画しつつありしが、今日午前八時二十分発にて出発の手筈となりしため、午前七時過ぎ家を出で、名古屋駅にて菅原、佐野、山崎三氏と会し、定刻出発す。午前十一時三十分、清水着。駅まで自動車にて出迎われたる赤藤氏に導かれて清水の入江を一周し、対岸のアルミナ工場着。ここにて弁当の饗に与り、食後、利根川技師の説明にてバイヤー法〔アルミニウム製造法〕実施の順序を聴取し、ついで原料陸上げより順次、破砕、オートクレーブ処理、加水分解、赤泥分離、アルミナ分離、■焼に至る全工程を隈なく巡覧す。ついでいったん事務所にて休憩し、午後四時半ごろここを辞し、自動車にて送られ、清水駅に戻り、五時七分の上りにて興津に下車。今夜の宿・水口屋に入る。夕食まで間あれば、一同赤藤氏の案内にて清見寺に詣で、帰って後一浴、浴衣に着代え、早川氏を交えて晩餐の卓につき、一同愉快に会食。十時ごろまで快談し、赤藤氏辞去後、寝につく。水口屋は大正の初めごろ正月をここに迎えたることあり。じつに二十七八年ぶりなり。

6月21日(日)半晴。午前七時過ぎ一同朝食を取り、八時過ぎ宿を辞し、停車場に至り、九時十五分上りにて蒲原に至り下車。駅まで赤藤氏出迎わる。直ちに電解工場の事務所に行きて小憩。赤藤氏よりまず説明あり。ついで工場見学に入る。まず電気施設を詳細に見学。水電の直流一万四千キロの大タービンを組立中なり。またジーメンスの水銀整流機二十四個の立ち並ぶ美観等を見、電解工場に入る。電解炉をあたかも組立てつつあり。その工程、各種のものありしため、その構造をまざまざと見得たり。また電解中の様子も見学。ただ掬み出し見学は時間の都合上後回しとなし、電極材料工場等を見て事務所に戻り、昼食の饗に与り、午後は研究所内を一覧の後、再び電解工場に入り、ちょうど掬み出し作業を行ないつつありしものを見学。これにてアルミニウム工業全工程を頭に入れ得たり。先年台湾高雄および花蓮港にても一覧したるが、どうも奥歯にものの挿りたるごとき説明ぶりにて、また実際に所々抜かして見学せしめ等せるため、これほど全工程の連繋を知り得ざりき。さて、午後二時二十四分の下りにて帰名する計画なれば、赤藤、早川両君、厚く二日にわたる労を謝し、自動車にて送られ蒲原駅に戻り、予定の汽車に乗る。山崎氏は上りにて東京に行き、予等は午後七時四十五分名古屋着、八時過ぎ帰宅す。

6月22日(月)朝雨、後やみ終日曇り。朝、駅に行き、明日帰京のための燕の切符を求めしに幸いあり。ついで教室に行く。やがて道野氏来訪。〔名古屋〕高工校長の使として今月末同校にて文化講演をなしくれとの依頼なり。同君の顔を立てて引き受く。ついで高嶺君来訪。午後一時過ぎより、学振第十七特第四分科合成雲母の会を名古屋にて引き受けたればこれを開く。会者、永井、山本、関口、山田、広瀬、野口、野田〔稲吉、応用化学、1903~1997〕、および予。まず野田教授の実験室にて実験を見学し、二時半より自動車にて二■に納屋橋のアサヒビルに至り、八階の談話室にて委員会開催。前回記事承認の後、野田、野口、広瀬三氏の講演あり。六時より一同会食し、食後散会す。

6月23日(火)雨。午後三時四十五分発の燕にて帰京のため、午後一時半ごろ教室を出かく。ちょうど自動車空き居たれば栄町の理髪店まで乗せてもらい、ここにて散髪し、三時前停車場に行く。宮部氏ここに待ち受け居り、物理にて機械類注文につき相談あり。これを済ませ、別れて定刻乗車出発。午後九時東京駅着、九時半過ぎ帰宅。

6月24日(水)曇天、夕刻より晴模様となる。朝、高嶺氏来訪。午前、徳永氏を訪ね、康元氏旅行談をちょっと聞き、今夜晩餐に招待したるに幸い快諾。帰家後、大学薬学の承二氏を電話にて呼び出し、今夜の会食に参加を勧誘したるにこれも快諾。十時過ぎ家を出で、まず新宿安田〔銀行〕にて百円を出し、三越にて明晩の寝台を買わんとせしに全部売り切れ、やむなくそのまま教室に行く。食堂にて物理の西川氏と会談。午後、書物小包三個を作り、午後三時教室を出でて帰家。間もなく南雄と家を出で、有楽町下車。帝国ホテルグリルに行く。承二氏すでにあり、やがて康元氏も来会。グリルにて会食し、のち少しく銀座をぶらつき帰家す。

6月25日(木)午前、康元氏来訪、なおいろいろ欧州の近状を聴く。予は早昼を食い、徳永氏を訪い康元氏結婚の祝として金五拾円を贈り、直ちに教室に行く。高嶺氏と黎明書院なる書肆と逢うはずなりしが、高嶺、島村両氏のみ来訪、書肆来たらず。ために両氏間もなく去られ、予も雨を冒し三時教室を出で、正門に至りしに幸い円タク来たる。これに乗り東京駅に行き手荷物を預け、徒歩丸の内会館に行く。四時より学研総務部会に出席のためなり。総務部員一同参集、文部省より注文の来年度研究費分配方法の改良につき協議し、なかなか議論多く、六時会食後なおこれを続け、九時散会。予は東京駅に至り、待合室にて時を消し、午後十時三十五分発鳥羽行に乗る。寝台なしなり。

6月26日(金)雨、夕刻より晴れ。午前六時七分名古屋着。食堂は七時ならでは開かぬとのことにて、待合室にて時を消さんとせしが、思い返し椙山氏方に電話し、帰宅し洗面朝食したるところへ菅原氏より電話あり。講義は東山にてとのことにて、朝、東山に行く。移転は九分通り済み居るも、まだ未整頓なり。ともかく十時より講義す。そこへ黎明書院来訪。池野〔成一郎〕先生〔植物学、1866~1943〕文庫〔名古屋大学生命理学図書室池野文庫として現存〕買収のことを話し等するうち、昼となる。酒井勝郎氏〔分析化学、1907~2005〕来訪。ここの食堂にて食事し、のち同氏と話し、午後一時半、菅原氏と西二葉町へ行く。午後二時半より評議会あるためなり。評議会五時に終わり、さらに六時過ぎより総長懇談会あり。多数の本年度卒業生と会食し、のち一人ひとりの名乗りあり。予はあまり眠ければ中座帰宅す。

6月27日(土)晴天。今日より本格的に東山に出勤。しかし未整頓なり。午後二時ごろ東山へ渋沢総長来訪。津上氏、高嶺氏等と裏山を巡検、生物学にて遺伝の畑を作る場所を選定す。ついで池畔の和光寮を見る。ここは寺院の古建物を修理し、会合等を行なう大学付属の別荘に手入中なり。留守番の芝夫妻、吾人をもてなさんと茶等出したるところへここの女児出で来たり、母親に挨拶せよと言われ、まごまごするうち板の間にありし薬缶につまずき熱湯を片足にかけて火傷す。誠に気毒千万やむなく渋沢総長自動車にて病院に連れ行けり。予は別れ、事務室に至り残りの用事を済ませ、電車にて栄町の偕楽亭に行く。今夜は新愛知の科学振興協会講演会にて、三雲教授の椰子油の利用なる講演あるためなり。新聞方面の人と会食し、ついで千代田ビル六階の講演場にて上記の講演を聞き、八時半ごろ帰る。

6月28日(日)快晴、全く夏景色。午前八時半ごろ菅原氏より電話あり。お城見物の勧誘なり。ちょうど昨日の官報にてお城御殿の襖画等国宝に指定の旨記載ありたれば、早速これに応じ、十時商工会館前にて出逢うこととし、九時半家を出で指定を場所に行く。菅原君すでにあり。お城に行けば御殿拝観は梅雨中停止なりという。やむなくお城だけの切符を求め、門内に入る。門はみな国宝の立札あり。門扉に南蛮鉄を貼り、いといかめし。櫓と天主との規模雄大にて美わし。園内の手入もよく届けり。天主閣に登る。さすがに日本一のお城なり。金の鯱のみが呼び物にあらず。この平原に何ら地形の要害を頼まず、築城の堅固と規模の大とをもって敵を待たんとする加藤清正の意図は、十分これを掬み得べし。立ち出で本町筋まで歩き、スエヒロにて昼食し、菅原君は東山に行かるるとのことにて、覚王山にて別れ帰家す。部屋に風通しよく、一時間ほど椅子にて昼寝す。

6月29日(月)曇天。朝、東山に行き事務を視、午前十一時、佐野氏と東山を出で西二葉町に行く。工学部長、応化教授連に引越の挨拶のためなり。西二葉町にはすでに菅原、山崎両氏待てり。まず外山教授に四月以来の厚意を謝し、ついで野田教授以下、香川、高木、恩田〔格三郎、応用化学〕の諸助教授に挨拶し、ついで石丸〔三郎、工業分析化学〕教授に実験室借用につき謝意を表し、ついで生源寺部長の部屋に赴かんとせしに廊下にて逢う。よって立ち話にて挨拶を済ませ、いつもの部屋にて応化の教官と食事を共にし、一時過ぎ一同東山に帰る。

6月30日(火)朝大雨、その後小降りとなりしも終日降り続く。書物の箱を開けて部屋を追々整頓す。午後三時より、物理の研究室にて京都の湯川〔秀樹〕教授〔理論物理学、1907~1981〕の講演あり。中間子より説き起こして結局素粒子構成の凝集力を考うれば、次々と新たなる素粒子を持ち出ださざれば解決のつかぬこととなり、要するに旧来の考えを一擲して新しき立場より因果の連関を考え直す必要ありとの結論なり。従来の統計力学が結果のみを統計的に考えたるを、原因をも含めて統計的確率論に考うる必要ありとのことなり。要するにあまりよくわからず。

7月1日(水)曇天。総長視閲のため休業。朝、三星〔デパート〕に行き、三日の燕の切符を求む。

7月2日(木)雨。午後三時より部長室にて茶話会を開き、化学の教授、助教授、助手、学生を集め、移転につきての慰労をなす。

7月3日(金)午前、物凄き大夕立あり、午後やみなお時々小雨、蒸し暑し。午後、道野氏来訪。今日の燕にて帰京のため午後二時教室を出でたるところへ、予を訪ね来たれる浜松高等工業学校の教授西岡氏に逢う。氏は浜工校にて教授を求め居れば、何とか周旋を乞うとのことなり。覚王山にて同氏に別れ、いったん帰家。荷物を持ちて再び覚王山へ来たれば、ちょうど椙山女学校の退け時にて、一杯の女学生にてなかなか電車に乗れず、困り居りたるところ、大学の自動車通りかかり乗せくれたり。これは県庁の人を送り届けるなりしも、停車場まで送ってもらう。大助かりなり。定刻発、中途より警報発せられ、■きこと甚だし。予定のごとく九時半過ぎ帰家。

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7月6日(月)晴天、大暑。午前十一時ごろ教室に行き、午後一時半如水会館に開かれたる第十七特第六分科(稀有元素)会に臨む。今夜五時より上野精養軒にて〔徳永〕康元氏結婚披露宴あるはずゆえ、この会を中座し上野に行く。徳永、藤田両家の親戚だけ五十名ほど集まり開宴。今日正午幸い警戒警報解除となりいたれば、気分も灯火も明るくめでたく閉宴のうえ、仲介人の発意にて康元氏より出発より帰朝に至る三年半の話あり。午後八時散会す。

7月7日(火)晴天、大暑。午後一時発鴎号にて帰名のため、早昼を済ませ正十二時家を出で、大久保より乗車。今日は本格的の夏にて本年第一の暑さなり。東海道線車中の暑さ相当なものにて大汗なり。午後六時半着。ホテルの食堂にて夕食し、帰家せるは七時過ぎ。

7月8日(水)快晴、大暑。今日は大詔奉戴日ゆえ、午後〇時五十分、一同を三号館の講義室に集め、型のごとく国民儀礼につき大詔を奉読し万歳を三唱す。午前、植物の大田氏、午後、京大物理の坂田〔昌一〕氏来訪。両氏とも名大に来任せらるるはず。

7月9日(木)快晴、大暑、夜風あり涼し。午後一時半より名古屋高等工業にて文化講演を行なう約あり。午後一時過ぎ、同校生徒主事富田氏、車をもって迎えに来たらる。同校にて平田〔徳太郎〕校長〔気象学、1904~1960〕と逢い暫時雑談の後、講堂に入り約一時間半ほど科学と国民性なる講演をなす。講演後、同校の車にていったん名古屋駅に行き、明晩十時十四分の寝台券を買ひ、また車にて覚王山停留所まで送られ帰家す。

7月10日(金)快晴、暑し。理学部会食、今日初めて東山において行なう。即ち物理の研究室をこれに充つ。幸い風吹きぬけて涼し。午後一時半より教授会。学課課程快晴の件、人事(菅原正巳氏、数学)等を議し、五時散会。次回は二十四日とす。夜九時、家を出で停車場に至り、予定の十時十四分発に乗り、直ちに寝台に入る。

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7月14日(火)快晴、大暑。六時半起床、支度をなし、岡崎を通るころボーイに弁当を買わしめ食事。午前八時名古屋着。山崎君駅まで出迎われ、昨日頼み置きたる今日の県の講演会時間変更を県のほうにて承■し、午前九時半、車を東山によこすことを伝えらる。同氏、覚王山より家まで荷物を持ちくれられ、大いに助かる。直ちにシャツ、白服を着代え、東山に行く。迎えの車、十時に来たる。直ちに明倫中学の会場に行く。県の人にまた県下主な学校の校長連に会い、直ちに講演場に臨む。相当の大講堂にて、約千名に近き聴衆あり。大部分は県下中学、工業、女学校の校長、および理科教員なりと。一時間半にわたり科学と国土なる問題にて話す。講演後、弁当を饗せられ、県吏員に送られて東山に帰る。午後二時ごろ新愛知の記者二人来訪、本夏の講習の用向きを相談し行く。

7月15日(水)朝曇り、のち快晴。朝、栄町の日銀に行き、過日学研より送り来たれる旅費を取り、西二葉町の大学本部に行き、原事務官と要談し、のちちょうど登学せる総長とも久々にて懇談し、十時過ぎ辞去。また栄町に出で三星〔デパート〕にて十七日午後十時十四分の寝台を買い、なお二三の買い物をなし、東山に帰着せるは正午前二十分ごろ。間もなく諸君と食堂に行く。

7月16日(木)朝曇り、のち快晴。大暑、しかし風あり空気乾燥せり。一応講義を了わる。夜、高嶺君より電話あり、池野先生と接渉の結果を報告せらる。

7月17日(金)晴天、暑気。夜十時十四分発の汽車にて東京に出発。

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7月24日(金)快晴、酷暑。午前六時三分名古屋着。椙山氏方へ電話にて通告し、直ちに電車にて帰家。朝食の後、八時過ぎ家を出で、まず覚王山郵便局にて貯金四百円を出し、東山の教室に行く。暑気酷烈驚くべし。午前九時より部長室にて教授会開催。まず人事として数学の菅原〔正巳〕氏を助教授に推薦することの可否を問い、全員一致にてこれを可とし、ついで入学試験問題に入り、第一次志望者■■なりしため、第二次募集の要項ならびに新聞広告文案を議し、午前十一時過ぎ散会。午後五時過ぎ帰家。今日の暑気はじつに南洋の暑さなり。夜に入るまで衰えず。

7月25日(土)快晴、大暑。午前八時二十分名古屋発の急行に搭ずべく、午前七時家を出づ。今度東京滞在はやや長期にわたる心算ゆえ荷物を余計に携えたれば、重きこというべからず。大汗にて覚王山停留場にたどり着く。停車場にて風を入れつつ待ち居たるところにて、白服の一紳士、予の名を呼びて挨拶せらる。予はいろいろ思い出でず、名乗らるるに及び、三十年前瑞西留学時代に交遊ありし眼科の中村豊博士なりしことを知る。久闊を叙し積もる話などなし居るうち、時間来たれば再会を約して別れ汽車に入る。割合にすきいたり。しかし車中の暑熱は台湾旅行を想起せしむ。午後二時半ごろ品川にて乗り換え、帰家せるは三時。水を浴び小憩、食事を五時ごろ採り、直ちに病院に行く。鈴木夫人あり。病人は別に変わりもなく、手術後の創口の癒着も良好なりと。八時過ぎまでありて帰家す。

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8月24日(月)快晴、大暑。昨夜こしらえ来たれるパンの弁当を汽車中にて食べ、また用意せる熱き番茶を飲む。汽車弁に勝る数等。午前八時名古屋着。椙山氏方にては正弘ちゃん病気。九時ごろ家を出で、東山の教室に行く。捺印うんと溜まり居れり。これを処理し、また化学の教室連と入試のことにつき協議す。午後も事務を見、夕刻帰家。暑気堪え難し。

8月25日(火)快晴、大暑。八時半ごろ家を出で、まず南■町の第一銀行に行き、岩波よりの印税を受け取り、朝日ビルの旅行社にて今夜の寝台をたずねしに、九時十五分のもの入手するを得たり。ついで栄町の安田〔銀行〕に行き、学振研究費五百円を受け取り、直ちに特別当座となし、市役所前まで電車にて、西二葉町の本部に行く。昨日、渋沢総長より電話にて面談したしとのことなりしためなり。総長より種々懇談あり。建築のこと、愛知県科学技術振興会のこと、入試のこと等なり。原事務官、小堺会計課長等とも要談し、昼前本部を立ち出で、電車にて栄町に戻り中央亭にて昼食。午後、東山に行く。かんかん照りの炎天にて、流汗水を浴びたる如し。午後、事務の残りを処理し、夕刻帰家す。帰家してみれば、東京より荷物到着し居れりという。不思議に思いて荷札を見れば、藤山諭吉氏よりの贈り物なり。木箱に縄までかかり居るものを開けて処理のつかぬ折は如何ともしがたく、思案の末、持ち帰ることとす。幸い椙山女学校の小使が停車場まで持ち行きくれるとのことにて、この方法と決定す。午後八時、小使とともに家を出で、覚王山停留場より電車に乗り、停車場に向かい、停車場にて件の荷物をチッキとなす。ここにて小使を帰し、しばらく立ちて改札。午後九時十分ごろ来たれる車に入る。寝台の暑気比ぶべからず。裸体同様にして寝る。

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8月29日(土)快晴、暑し。午前十一時ごろより病院に行く。午後四時、病院を出で物理教室に寺沢氏を訪い、今朝名古屋帝大の小堺〔乕三郎〕会計課長より依頼の件、即ち東京の化学教室所有の空気液化機械保管転換につき了解を求む。

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9月4日(金)半晴、暑し。午前八時名古屋着。珍しく降車口にて円タクを捕え、覚王山まで乗る。大いに時間を節約せり。かくて帰家せるは八時二十分。小憩の後、東山へ行く。午前十時より教授会。人事ならびに入試の件を協議す。願書提出者は数学14、物理31、化学20、生物11、計76なり。そのうち高校卒は物理に7、化学に5の12名に過ぎず。他はことごとく試験を要する連中なり。正午前、教授会を終わる。

9月5日(土)半晴、夜驟雨。いよいよ入試始まる。各科とも二三名ずつの欠席者あり。今日は数学、生物、および語学なり。午後、渋沢総長、東山へ来訪。建築の様子など視察し、三時辞去せらる。

9月6日(日)朝大雨、午前中にやみ暑くなりしも、夕刻より涼風立ち、秋のいよいよ来たれるを告ぐ。今日は日曜なれど入試続行。即ち物理と化学となり。正午に了わる。昼は菅原君と東山電車終点のミスズ食堂というにてライスカレーを食う。案外よろし。午後、大体点調べを終わる。明日中には合格不合格わかるべし。午後、道野氏来訪。

9月7日(月)半晴。各科にて入試の口述試験を行ない、入学者を決定せり。明日、委員会にて公式に承認し、明後日発表のこととなす。江上、小穴両氏来名。

【一頁欠落】

9月8日(火)【欠落】明朝決することとす。なお、一応宮部教授、明朝医学部に行き、入学不可という程度を聞きに行くこととなる。かくて午後五時散会。

9月9日(水)晴天、暑気。今朝、宮部教授、医学部に行き、レントゲン検査の結果を聞き来らる。結局、物理傍系の一番、同じく化学の一番は救う能わず。これを除外し、数学のはなお厳重なる診断を必要とし、とにかく一ヶ年は休学せしむべしとのことに、ついにこれも不合格とし、採用せるは数学6名皆傍系、物理8名うち6名高校、化学6名うち5名高校、生物5名皆傍系。正午少し過ぎ、これを掲示す。

9月10日(木)晴天、暑気。非金属講義始める。午後一時より医学部会議室において市河〔彦太郎〕イラン公使のイラン談ありとのことにて、昼食後山崎君とともに行く。一時半ごろより始まる。聴衆は教授、助教授、講師に限られ比較的少数なり。公使すこぶる能弁博識、立て板に水以上の早口にて講談師そこのけの雄弁。内容の幅の広さはイランの歴史、文学、風俗、人情、ついで現状より説き起こし、氏の帰路の中央アジアの重要性、大東亜省の批評、誠に縦横談議、外交官としてはまさに型破りの人物なり。その話の面白きこと到底講談師等の及ぶところにあらず。長広舌二時間半。午後四時半よりこの九月卒業の医工学部学生送別ならびに入営学生壮行の式あり。中島学生主事、田村医学部長、生源寺工学部長の挨拶の後、在学生の送別辞、卒業生の答辞ありて、六時これを了わり、さらに六時より報国社幹事学生と教官役員との懇談会に移り、一同弁当を採り、のち一人ひとりの自己紹介と意見開陳あり。八時半これを終わりて散会す。

9月11日(金)晴天、暑気■きも、風やや荒し。午後三時半ごろ教室を出で、久々にて町に出で、栄町にて散髪す。

9月12日(土)半晴、午後三時ごろ猛烈な夕立あり。午後一時半ごろ教室を出で、一度帰家し支度を整え、三時十五分前家を出で、半町も来かかりしころぼつぼつ降り出したりと思うまに大ぶりとなり、覚王山停留場に来たりし時は盆を覆す大降りとなり、前の商家の軒下に走り込む。そのとき名古屋駅行の電車来たり、これに走りつけて乗る。この間に膝より下はぐちょ濡れとなる。電車内は一杯の人のところへ、窓をことごとく閉じたればその暑さいうべからず。かくて三時二十分ごろ駅に着き、列に入りて改札す。プラットフォームに上れば菅原君あり。五号車なれば一足先の同君に席を取りてもらう。時来たりて列車来着、乗車出発す。六時半ごろ静岡あたりに来たりし時、食堂に入る。ここより列車は灯火管制、横浜を出づるまで続く。九時東京駅着、九時半帰家す。四日目にて入浴す。

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9月17日(木)半晴、冷気、夕刻小雨あり。九時より講義、了わって、溜まれる事務を視る。

9月18日(金)曇天、小雨あり、冷気。朝、家へ電話あり、出てみれば東京〔大学〕医学部の緒方〔知三郎〕教授〔病理学、1883~1973〕なり。会いたしとのことにて、大学の途筋を教え来学を乞い、予も直ちに大学に行きて待つ。九時半ごろ来着。いろいろカシンベック〔病〕研究の経過につき語られ、今後の協力を乞わる。快諾し、校内等案内し、十時辞去せらる。午後一時、迎えの車来たり、菅原氏、宮部氏、学生二名と二葉町に行く。予と菅原氏とは評議会に出席。宮部氏と学生二名は護国神社に■■拝に行く。満州事変紀念日のためなり。評議会五時に終わり、町に出で買い物し帰る。

9月19日(土)曇天。

9月20日(日)曇天、午後時々大驟雨来たる。やや荒れ模様なり。午前九時ごろより教室に行く。事務の長谷氏も出勤。学年進行に伴なう人事上申の書類を作らしめ、これを点検し、昼少し前、教室を出で電車にて栄町に出で、中央亭にて昼食し、また電車にて城山まで引き返し、城山の末盛八幡に参詣す。これは末盛城跡に近年八幡宮を造営したるものにして、よく手入届き眺望もよし。歩きて帰家す。蒸し暑く、汗上衣にまで浸み出でたり。今日は第三次入試の身体試験日なり。明日より学科試験始まる。

9月21日(月)昨夜来の大雨いよいよ激しく、風も出で次第に荒れ模様となり、夕刻より純然たる暴風雨となる。午前、総長、事務長、会計課長等、東山へ来たる。今日は理学部新築校舎の地鎮祭あるための由。今夕の汽車にて奈良へ行くはずなりしも、天候険悪のためやめることとし、三時ごろ教室を出で帰宅す。本山橋まで来たりしも、電車来たらず。ついに徒歩して帰る。覚王山まで来たりし時、ようやく動く電車を見る。このとき雨降り出でたればちょっと傘を拡げしに、突風来たり傘は滅茶滅茶に壊れたり。家は高く聳えたれば風当たり激しく、吼ゆる風、鳴る雨戸、雨のしぶきもどこともなく入り来たり、凄まじきことなり。

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9月24日(木)【略】…帰家せるは七時、入浴等済ませたるところへ上田氏より電話あり。散歩の途次立ち寄るとのことにて待てば、やがて夫妻にて来訪。今夜は満月にて中秋明月の宵なるが、片雲の浮かべるものなく、天空一輪の明月かかりて皎々の光をはなち、天地静寂ただ虫の音のみ繁し。この清夜を語りて両人の辞去せしは九時半。

9月25日(金)快晴。第三次入試の結果決定。数学一人、物理三人(高校)の四人だけとす。即ち傍系受験者は全滅なり。昼は久々にて理学部会食。総長、庶務課長、会計課長もわざわざ出席。食後、これも久々にて教授、助教授、講師の懇談会を開く。これは文部省諮問の高校年限■縮に関して、高校への要望と大学自身の取るべき対策の問題を理学部として検討したるなり。種々有益の議論出でたり。夕刻、教室へ武蔵高校長山川黙氏〔植物学、1886~1966〕来訪。夜、十六夜の月磨けるごとく中天にかかりて、家々の屋根露に濡れ美しきこと限りなし。

9月26日(土)午前晴天、午後曇り、夕刻より雨となる。教室への往途、逆行して栄町下車。明治屋のちょうど開くところへ行き合わせ、群衆とともに入れば雪印のバタを売るところなり。半ポンド二つを求め、ついで前の十一屋に入り、地下にて林檎ジャムを見出だし二つ買う。これにて東京への土産出来たり。二三日前よりやや慢性的に腹具合悪ければ今日は食養生をなす。朝、牛乳とトースト、夜は粥を煮てもらう。四月この家に来たりて初めてのことなり。

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10月1日(木)曇天。午前九時半ごろ家を出で、まず新宿に行き庄司にて散髪し、ついで〔四谷〕大木戸の瓦斯会社に行きしに、今日は会社の創立記念日とかにて休みなり。ここより乗合にて江戸川に出で、電車に乗り代え病院に行く。電車内にて久方ぶりにて小林■■君に逢う。正午過ぎ病院へ福島高麗夫氏〔著者の義姉の甥〕来訪。一時間ほど話して辞去せらる。警戒警報中ゆえ早帰りせんと三時半ごろ教室を出で、植物学教室にて大槻君に逢うべくその方角に行きかかりしに、菅原君の来たるに逢う。聞けば鉱物学教室が退蔵機械としてプルフリヒ屈折計を有し居れば、森野君を連れてこれを見に行くべく、とりあえず化学教室へ行くこととしまた戻る。教室に入れば玄関に飯島、山口両氏あり。今日は東京は入学式にて賑やかなりしが、当方は如何とのことに、かくのごとく拙者と菅原氏と出京中ゆえ名古屋はまだまだ入学式どころにあらず等話して居るところへ、二階より山崎氏降り来たる。おやおや、いよいよもって名古屋は空っぽなりと大笑す。菅原、山崎、森野氏等と二号館へ行く。予は幸い出勤中の大槻氏を訪い、フノリへ入れる滅菌剤のことを相談し、結局フォルマリンということになる。その濃度につき大槻氏より返事をもらうこととし、ここを辞し廊下に出づれば、三氏、鉱物室より出で来たり、待ち居たり。聞けば伊藤氏不在にて要領を得ざりしとのこと。一同と別れ、正門まで歩き電車にて駒込より帰家す。

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10月6日(火)快晴、温度高し。午前六時半、寝台を出で支度をなし、家より携えたるトーストと紅茶にて朝食を済ませ、午前八時名古屋着。今日は家に寄らず直ちに東山の教室に行く。午前十時より三号館にて新入生の入学式を行なう。即ち教授連と新入生の前にて一場の訓示を行ない、十時半終わり、ついで新入生は各教室に分かれ、主任より向後の行動について注意を受く。午後一時半、迎えの車にて西二葉町に行き、評議会に出席す。過般文部省より年限短縮対策について八ヶ条の諮問ありし答案につき議す。午後五時半、車にて送られ帰る。

10月7日(水)快晴、北風強く温度降る。東京を出したる書籍入り荷物、案外早く着き、昨日はすでに荷ほどき済み居たれば、今日内容を出して整理す。植物に関するものは生物教室に進呈す。

10月8日(木)晴天。新入生に最初の講義をなす。十二時五十分より例のごとく一同を集め、宣戦詔勅を読み、なお今日は軍人援護に関する詔勅をも捧読す。ついで万歳三唱例のごとく式を終わる。研究費に関する書類完成したれば、先日の部長会議の約束にしたがって、その写しを東京の寺沢部長に送る。午後三時半教室を出で、栄町の三星〔デパート〕に行き、十日の燕の切符を求む。覚王山のパン屋にてバタを買う。

10月9日(金)曇天、午後雨となる、無風。硫黄より始めたる前記学生の講義、ようやく中期生に追いつきたれば、来たる十九日月曜の補講より前中両期生合同にて講義するはず。午後、会計課長来たり、校舎周囲の緑化につき相談あり。来年五月の開学式までに芝生植樹等にて美化することとなる。

10月10日(土)晴天、風強し。午前九時より医学部講堂にて入学宣誓式あり。式後、東山の教室に行く。昼食の際、見れば賄いにて弁当を作りつつあり。聞けば今日午後より医学部園遊会あるなりと。賄いのおばさんに一つを余分に作ってもらい、今日の汽車の夕食のために携え帰る。午後一時過ぎ教室を出でいったん帰家し、服を代え支度をなし、二時半家を出で停車場に急ぎ、午後三時四十五分発の燕に乗り、午後九時東京駅着、午後九時半帰宅す。