柴田雄次日記抄 昭和20年


5月12日(土)【前略】総長不在ゆえ代理を頼むとのことにて、今日の会合も森田氏と会談すべき次日の下相談なり。かつ、今日まで応募し来たれる東海支部下の各学校、研究所の研究課題を一応検討す。

5月13日(日)居室すなわち教室にて暮らす。今日は快晴、暖気好適の新緑日和なり。昼ごろ高嶺〔昇〕君〔植物学〕予が居室を訪れ、生物学教室として一括入手せんとする名古屋本草家梅村甚太郎氏所蔵図書の目録を編成しつつあれば見に来ずやとのことなり。午後、菅原〔健〕君〔地球化学、1899~1982〕とともに生物学教室に行く。総数二百余冊の由にて、なかには文学書もあり。そのうち完本の『和歌拾題抄』十四巻〔河瀬菅雄(1647~1725)編〕と斎藤拙堂〔1797~1865〕『月ヶ瀬遊記』二冊は予が譲り受けたしと申し込み、高嶺君の部屋で本物の珈琲にその香気をめで、部屋に帰れば夕刻右二書のほか、先考〔柴田承桂、薬学、1849~1910〕が明治二十二年訳述の『顕微鏡用法』をも添えて届けらる。よく見れば拙堂『月ヶ瀬遊記』はぜんぶ篠崎小竹〔1781~1851〕の筆を版に起こしたるものにて、その筆跡の美いうべからず。

5月14日(月)午前八時ごろ警報出で、大編隊の東海地区侵入を報ず。支度用意し物理の横穴壕に入る。空襲は西部南部より始まり、間もなく濛々たる黒煙天に冲し、西風に送られ東山にも流れ来たり白日ために暗澹たり。しかるに八時半ごろに至り東山にもしきりに焼夷弾落下、危険にして壕より顔も出す能わず。その間、生物危うしという声あり。わずかに壕より頭を出して生物教室を見下ろせば、教室の屋根に二十余個の焼夷弾燃え居り、消防の手だてもなし。また、この隣の本部の屋根も同様の状態なるが、航空医学の二棟は無事なり。やがて生物も本部も本格的に燃えはじめ、約一時間半ほどにして全館火となり、間もなく焼け落ち全く惨状言語に絶す。十時半ごろ敵機去り、十一時半警報も解除となる。一巡して生物教室の焼け跡を見る。一物を残さぬ全焼なり。飼育室には二発落下し、佐藤〔忠雄〕教授〔発生生物学、~1977〕の私品に損害ありたるも、幸いに予の疎開品は無事なるを得たり。午後、医学部より見舞の握り飯等来たる。なお今日焼失せるは本部事務室、生物学教室のほか、恵風亭、下級事務員の小住宅(官宅)三軒等にして、恵風亭には最近庶務課長として赴任し来られたる丁子〔尚〕氏滞在中にて、衣服類全部を失われたりと。さて、この火事にて電気瓦斯止まり、したがって水も来たらず、教室生活は憂鬱となる。本日の来襲敵機数は四百の由にて、従来のレコードなり。

5月15日(火)生物や本部事務の各課に物理、化学、数学等の空き部屋を融通しそれぞれ決まる。

5月16日(水)〔渋澤元治〕総長〔電気工学、1876~1975〕帰名、会談し善後策協議。

5月17日(木)今暁またまた百余機名古屋市街地を盲爆し、各所に火災起こる。覚王山付近にも盛んに火災発生、後より聞けば椙山氏両軒とも罹災せられたりと。なお大学官舎も全焼し、二三日前これに移られたる丁子氏再び罹災、何とも気の毒の至りなり。じつは予は丁子氏とこの官舎に同宿するはずにて、すでに一二度この家を視察し、世話を頼む老婆にも逢い、組長にも挨拶したるが、配給物の関係上、移転を後らせいたるためこの難を免れたり。かねての約のごとく午前十一時、文部省科学局の森田動員課長来訪、学研東海支部の幹事を集め、幸い総長が帰名のため同席して、森田氏より支部の仕事につき説明あり。一同午餐を共にして、午後一時ごろ森田氏辞去。

5月22日(火)午前十時より医学部講堂にて、青少年学徒に賜わりたる勅語奉読式あり。菅原君とともに出席す。式後、東部軍参謀長藤村〔益蔵〕少将の談話あり。十一時これを終わり、東山に帰る。久々の外出にて大いに疲労すところへ、ちょうど六号館の上に来かかりし時、B29一機頭上を通過したると見る間に、じつに突如覚王山と思しきあたりに一個の爆弾を投下す。一同驚き土手を這い下る。予は今夜、鳥羽発列車にて帰京と決したれば、支度をなし夕食を菅原君と共にしたる後、小使に荷物を持たしめて出発、八時前名駅着。ゆるゆる休息し定刻出発す。
5月23日(水)品川にて乗り換え、帰家せるは午前七時過ぎ。弁当は汽車中にて済ませたれば、熱き味噌汁一杯を喫して一息つき、九時前再び家を出で、恵比寿駅より目黒技研における海軍科技審に出席。今日は旅費の外に年間の謝礼として二千円を渡さる。例のごとく正午終わり、午餐を共にし散会。直ちに大久保に帰る。夕刻入浴。

5月24日(木)滞京静養。午後、岡田にて散髪。夕刻入浴。

5月25日(金)午前九時家を出で、東大図書館の帝国学士院事務室に行き、乗車切符の切り代え手続を頼む。今度より三ヶ月となり大いに助かる。書類を調べもらい、自分にて運輸省に出頭、貰い来たることとす。ちょうど長岡〔半太郎〕院長〔物理学、1865~1950〕も在院。暫時雑談してここを立ち出で、東大前より電車にて須田町に出で、徒歩神田駅に至り、省線にて東京駅下車。運輸省六階の乗車券掛に出頭、頼みたるに何のこともなく三ヶ月通用の乗車券を製作渡しくれたり。帰京後、腰骨と股とが痛み歩行困難にて、今日は特に甚だしく虫の這うように歩き用達しをしたれば、直ちに帰家静養す。夜十時、警報出づ。床を蹴って起き出で、支度をなして情報を聞けば、大編隊の来襲らしく、数目標八丈島を北上中とのこと、八丈島ならなお多少の余悠ありと寝床を片付け■■■■■、いざという■■窓より投げんと窓枠■■せ等す。しかし一方、昨暁も大空襲ありたるばかりなれば今夜は大したこともなからんとの希望的油断のため、平素はリックザックに収むべきもの出し放しとなせるもの多く、そのまま下に■■■■■■■時半にはすでに空襲警報となり、敵機の爆音聞こえ初めたれば、一同リュックザックだけを持ちて壕に入る。もっとも南雄〔著者の息子、作曲家、1916~1996〕夫婦は例のごとく、食糧、大切品、蒲団等を新たに掘りたる■の壕に入れ終われり。隣家諸井氏ちょうど一昨日休暇にて帰宅し居られ、留守番の兵永氏も来会。そのうち各方面に火の手上がり火災も相当激しくなり、その方向など話し合い居りしところへ、突然西北方に爆音聞こえ始め、その方向にも火の手上がる。これは悪徴候と語り合い居りし間もなく、突如西隣の家に焼夷弾落下、燃え初めたり。いよいよ来たれりと一同壕を飛び出で、消火態勢に移り、予も井の水を汲み等するうち、隣の工場内パッと明るくなり、火の手上がらんとせしが、これは間もなく消火したるも、北隣の益留氏はすでに一面の火、東隣の深水氏も全面的に燃え居り、如何とも手の施しようなし。この時はなおわが家は全く火の気■なく、助かるかと一縷の希望ありしが、やがて南雄走せ来たり、女中部屋に焼夷弾落ちたりと叫び、敏子に応援を求む。諸井氏、敏子等敢闘、一時これは消し止めたるも、やがて二階の棟より濛々たる白煙吹き出で火焔さえちらつき、もはや落城の外なく今は避難の途筋を考える段取りとなれり。このため予はまず壕内に置きたる三人のリュックを取り出し、この時まで安全なりし諸井氏玄関に置き、一同の集合を待つ。これがため縁側まで出し置きたる手提折カバンを携うることを全く失念したるは遺憾千万なり。また、二階寝室の窓まで出し置きたる寝具一切は時すでに遅く、知りても見捨つるの余儀なきに至れるも遺憾の極みなりき。かくて三人離れぬよう、ひとまず往来に出づれば、左右みな火にして、ただ向かい側へは飛び火せず。今夜はすでに初めより相当の風力なりしが、火災の拡がるとともに風勢いよいよ猛烈となる。とにかく中央線高架の壁下に取りつかんと筋向こうの路地を抜けて大久保駅裏口へ出づれば、ここはすでに避難者一杯にしてひしめき合えり。ここには過般の強制疎開の家屋の建具うず高く積み重ねあり。これに引火すれば危険千万なるも、今のところ火はやや遠し。何とか新大久保より西大久保焼跡へ出る路なきかと探りたるも、到底危険にして実現し得ず。かえって逆に大久保駅に近づくほう安全らしく、徐々にその方向に向かう。ここにて吉阪氏に逢う。氏は家族と分かれ分かれとなり、ただ一人なり。また諸井氏、兵永氏も来会。一同、古川農園に出で、■■■■建物の下に陣取り、形勢を観望す。風いよいよ猛烈にして、ついにわが家の向かい側の一廓にも火の手及び、ついに焼失す。石に腰を下ろし、全く疲労のため無感覚に近き精神状態にてこれを観望す。そのうち夜は白々と明け離れ、火も■■■収まりたるころ、南雄、一度焼跡に行き、壕中の物品全部無事なるを報じ、一同大いに喜ぶ。夜全く明け放れたるころ、三人にて焼跡に戻り、その惨憺たる状態にまず呆然。わが家は煙突高く聳えて残り、往来側のコンクリートの塀も何の変化もなく、この両者はよき目印となる。なお余煙立ち昇り、煙きこと言うべからず。壕の側に焼けトタンを敷きてドッカと座し、昨夜炊きたる飯とさきほど町会にてくれたる焼牛缶とにて朝食を取り、少しく人心地つく。茶を沸かさんと敏子、薬缶を焼跡に置くと間もなく沸騰し、火には全く困らず。茶を飲み落ち着きたるうえ、南雄、吉阪氏の自転車を借りて中野方面へ偵察に出かけ、一時間ほどにて帰り来たり、いわく戸田家も全焼、敏子母親および妹は無事なる諸井氏方に避難中にて、吾人にも来るよう諸井氏より勧誘せられ居れば、とにかく同氏の厄介になる外なからんとのことにて、別に方法もなければひとまず諸井氏方に避難することとす。やがて諸井三郎氏〔作曲家、著者の息子の師、1903~1977〕出勤の途、軍服姿にて焼跡に立ち寄られ、遠慮なく来るよう懇切に申し出らる。この厚意にすがりて何分よろしくお願いするよう頼み■■、余まず徒歩して同氏邸に向かう。折から雨降り出で、昨夜は一時忘れ居たる腰および足の痛み、この時またひどく感じ始め、歩行困難となりしも、虫の這うごとく一歩一歩たどりて、一時間余を費やし諸井氏を訪ぬ。夫人しきりに慰問せられ、とにかく上がりて風呂に入れとのこと、誠に嬉しき心遣いなり。厚志を万謝し、すぐに風呂に入り身を沈めたるときは誠に夢のごとき心地なり。これにて■■心神も■■、全く蘇生の思いなり。そのうち南雄リヤカーにて荷物の一部を運び来たり、昼夕とも多勢賑やかに会食。昨夜来のことは遠き出来事のごとく安眠す。

 五月廿五日夜半戦災にかかる

 暗をさき雨のごとくも降りに降る醜の醜弾せんすべもなし

 二十年のたつきを想い燃えさかるわが家の棟をかえりみて立つ

 焼跡に帰りて見れば井の端にまきしかぼちゃは芽を出し居たり

 隣組心々に去り行きて焼け野の原は人影もなし

 思い出のもののかずかず一積みの灰とはなりぬもののかずかず

 忘れてはかしこの棚の上にありなどと思いぬ焼けし文まき

5月27日(日)晴天、温度昇る。午前、諸井氏方を出で、せめて予一人にても打越の加藤氏方に引き移り諸井氏の厄介を軽減せんものと、加藤常太郎氏を訪う。このあたりも戦災を免れ居れり。加藤氏を訪えば、常太郎氏幸い在宅。聞けばすでに三人の知人の罹災者を引き受け居れりとのことにて、広くもあらぬ同氏宅も相当ごたごたせる様子。叔母上はすでに日光に疎開せりとかにて、家にあらず。この調子にては加藤氏の厄介になることもできず、やはり諸井氏に落ち着き居ることとし、薬品の買い入れ等同氏に頼みて、正午前諸井氏方に帰る途にて、幸い聞き居たる薬局にて胃腸剤、点眼薬、解熱剤等仕入れる。午後は諸井氏応接間にてただぼんやりと暮らす。毎夜警報あり、一々支度し起き出づ。

5月28日(月)快晴。予はとにかく一人にて茅ヶ崎に引き上ぐることに決し、諸井氏夫妻に厚く礼を述べ、午前九時同氏宅を出で中野駅に出づれば一杯の人なり。二台目の電車にてまず立川に出で、乗り換えて八王子下車。横浜線の電車に乗り代え、橋本に下車せるときは十一時なり。十一時二十三分茅ヶ崎行の相模鉄道に乗り換え、幸い座席を得、定刻発車す。この線は初めてなり。田園風景まことに平和にして戦時とも思われず。しかし現実は現実にして、厚木あたりにて警報出で、やがて空襲警報となり、小型機編隊の来襲の情報あり。乗客言う、この汽車は全く曝露せる田園を走るため、しばしば小型機の機銃掃射に逢うと。運命やむを得ずと諦め、用意怠りなく、びくびくものにて一駅一駅を過ぐ。幸いこのあたりには来襲なく、午後■時つつながく茅ヶ崎着、ほっとす。しかし駅にては乗客を出さず、待合室に待機せしむ。三十分ほどにして情報は安全なるを告げたるをもって、駅を出で幸い人力自転車に逢い、これに乗りて帰家す。その途にて警報も解除となる。家に着けば、突然のことにて南美子大いに驚き、また家の焼失にも驚愕、予の物語を聞きて感慨無量、なお物品疎開不完全にて、大切品、愛惜品ほとんど全部を失いたることを痛恨愁嘆す。予はここに来たりて全く安心。これより当分静養し、この日ごろの無理による健康の変調を医せんとす。

5月29日(火)曇天。午前八時ごろ警報あり。やがて空襲警報となり、戦爆連合六百機京浜地区を大空襲し、大火災起こる。田中氏門前まで行きて見れば、東北の空に大積乱雲のごとき煙、高く広く天の一角を占め、見るも恐ろしき大火災の発生を語る。十一時ごろ解除となりしをもって、南美子と停車場付近に買い物に行き、いろいろ買い物す。

5月30日(水)快晴、初夏らしき日。今日は目黒技研に安定剤戦研会議あるはずなれども行かず。昼ごろ南美子とまた停車場付近に買い物に行き、郵便局にて各方面へ罹災通知を出す。

5月31日(木)快晴。今日は家にありて洗濯、風呂涌かし等にて暮らし、入浴して一層の元気を増す。夕刻、突然南雄来たり、その後の情報をもたらす。敏子は長瀞長生館に戸田家族とともに滞在、南雄も主として長瀞にありて落着先を考慮中とのこと。

6月1日(金)半晴。午前、停車場に行き、荷物発送の可能性、軽井沢あてにつき質問したるもあまり要領を得ず。なお小口扱部の人不在にてよくわからず。ついで郵便局へ行き、陸軍よりの手当、百人町郵便局あてのものを事情を話して受け取り得たり。また、名大理学部へ罹災のため帰任遅れる由の電報を打つ。なお二三の買い物をなし、正午過ぎ帰家。午後は在宅雑用。今日は阪神方面が空襲を受けたる由にて、関東は静かなりき。

6月2日(土)雨天。南雄、昨日中滞茅休養、ほとんど一日中寝て暮らしたるが、今日は雨を冒して朝より東京に行く。予は大久保にて焼失したる南雄結婚に関する挨拶状を再び書き初む。

6月3日(日)快晴。午前十時ごろ駅に行き、荷物発送につきいろいろ聞きただす。要するに罹災証明にて切符を求め、この切符にて一世帯十個の小口扱を出し得るとのこと。それ■■郵便局に行き郵便物投函。買い物等して帰る。田中実氏、岩手県寺田村より帰京来訪、見舞を述べられいろいろ土産物を貰う。なお夕刻、五目飯、文房具等届けらる。

6月4日(月)曇天。朝、田中氏を訪い、昨日届けられたる文房具のうち若干の厚意を受け、大部分を返却す。午後は洗濯、靴掃除、日記整理等にて籠居。二三日前、駐在所の植村巡査に応急米のことを頼み置きしに、約五■■■の指■を届けらる。

6月5日(火)晴天。朝食後、九時ごろ南美子と中海岸の米穀配給所に行き、応急米七キロ六三を受け取る。なかなかの重量にて、持ち帰りに大いに閉口す。午後は日記整理。芋苗植■(約二十株)等に暮らし、夕食後、散歩かたがた南美子と九組隣組の地域を回り歩く。

6月6日(水)半晴。朝食後、田中氏を訪う。氏方に寺田村よりの泊り客あり。今朝は浜に地引網あるやも知れず、行き見ずやとの田中氏の勧誘に、同氏夫妻、客とともに浜に出づ。
予は来茅以来初めて海岸に出でたり。ところが今朝はあいにく地引網は休みにて、空しく帰る。夕刻、南雄来たる。

6月7日(木)大雨、荒れ模様。南雄、保険等の用事にて上京、鈴木康道氏〔東京海上火災保険〕を訪問等し、解決を得て夕刻帰り来たる。

6月8日(金)晴天。今日は正午より学士会館にて学振第十七特第十三分科(白金)委員会あるはずなれば、久々にて東京の様子も見たく、これに出席のため上京。一同昼食を共にし、委員会に移り、三時前これを終わる。直ちに東京駅に戻り、三時二十五分大阪行にて帰茅。学士会館食堂にて小石川兄上〔柴田桂太〕に逢う。目下、林孝三氏〔桂太の女婿〕方にあり、近く桂井氏宅を借り転住の由。また姉上すでに退院、同じく林氏方にあり、近く林氏の家郷新潟県に行かるるとのこと。また罹災当夜負傷せる承二氏もすでに快癒、目下、布佐の岡田武松氏〔気象学、承二夫人の祖父、1874~1956〕方にて静養中とのこと。南雄、予と同じ汽車にて出発、秩父に帰る。今日、芋苗五百株を植える。これは先日停車場に近き百姓に約束し置きたるを、今日持ち込み植え付けくれたるなり。■■にて■■■なり。

6月9日(土)快晴。午前、電熱器を修理したるが、やや不注意にてショートせしため、フューズを飛ばせ大いに閉口。直ちに停車場に近き配電会社に行き、フューズ接続を頼み来たりしが、果たして今日中に人を寄越すかどうかと心配したるに、■時ごろ来たりくれ、直りて安心す。

6月10日(日)快晴。午前、戦爆連合の編隊また京浜地区を襲う。午後、木村健二郎氏来訪。林檎、香山焼湯呑、煙草等到来。昨日午前手に入りたる鯖二十をお持たせす。

6月11日(月)曇天。今日は海軍科技審の日なれば、午前■時起床、直ちに朝食の支度をなし、午前七時家を出で、同二十九分茅ヶ崎発にて上京。品川にて乗り換え、恵比寿下車。ところが、このあたり最近の空襲にて焼野原となり状貌一変、技研へ出る横丁がどこかわからず交番にて聞きたるほどなり。九時技研の門に達したるとき警報出でしが、これはB29一機の由にて間もなく解除。委員に遅刻者多かりしが開会、正午終わる。この時また警報出で、今度はB29二機に報道せられたるP51一千機とのことにて、間もなく空襲警報となり、吾人一同造船研究部の壕に入る。これは鉄筋コンクリートの立派なものなり。ちょうど■所長■川中将も来会、久々にて面会す。やがて情報は敵機が主として京浜西北方および霞ヶ浦方面に向かえりとのことにて安心せしが、間もなく敵機相模湾より脱■とのことにて空襲解除となる。一同出壕、食堂に入り食■■■■■■。予は恵比寿駅より新大久保下車、十余日ぶりにて焼跡に行き見る。益冨氏が壕生活を続け居らるる外は皆すでにそれぞれ移転せられしと見え、隣組■■■ず。焼跡をあさりて紀念となる品二三、例えば■■焼福禄寿置物、小皿等を持ち帰る。町会に立ち寄り郵便物を探したるも、予あてのものなく、敏子および諸井氏のもの一通ずつを取り、大久保駅より乗車、東京駅に至り、■時■十五分発大阪行にて帰茅す。

6月12日(火)曇。今日は午後一時より帝国学士院授賞式および常会の日ゆえ、出席のため午前十一時家を出で駅に行きしに、十一時には発車なく十二時九分のよりあり。■■■東京着が二時ごろとなるゆえ、定刻には間に合わぬも、所用あることゆえ行くこととし、列車の来るを待つ。この列車は大阪発■■■■■■■■、駅に入り来たる。ところがすでに超満員のところへ茅ヶ崎の相当多数の乗客待ち居たるため、いかに努力するも乗る能わず、ついに残されたり。この次の列車は一時過ぎにて、これにては遅刻も甚だしくなるため、ついに断念して帰家す。

6月13日(水)曇天、小雨。今日は午後四時より学士会館にて木村健二郎君、帝国学士院賞受賞祝賀の小宴、同氏協同研究者によりて催さるる由、先日木村氏来訪の節、話しあり。予にも都合つけば出席を乞うとのことなりしゆえ、これをきっかけに上京し、その夜帰名することとし、午前二時前家を出で茅ヶ崎駅に至れば、ちょうど二時十分発の列車遅れて入り来たる。ここにて紀本助教授に逢い、ちょっと挨拶して直ちに乗車。この車すき居り、楽に座席を得たり。三時半東京駅着、中央線にて御茶ノ水に出で、徒歩学士会館に着きたるは午後四時、時間の計画はじつにうまく行きたり。すでに木村氏はじめ一同集まり居られ、第一号室にてひとまず茶話会開かれ、ピーチの缶詰にて茶を喫し、予は一場の挨拶を述べ、木村氏の答辞あり。五時、席を食堂に移し会食す。この御馳走また凡ならず。スープ、鰛の油漬、牛肉のソース煮込み、御飯、鱈子白菜の付け合わせ、カツレツにカボチャのスマッシュ、これに加うるに量こそ少なけれ西班牙のポルト酒。全く近頃豪華なる小宴なりき。なお食後、第一号室に戻り林檎砂糖煮の冷凍出で、これまたすこぶる美味。かくて一同歓談の後、六時散会す。予は岩崎友吉氏のYMCAアパートにて時を消すこととし、同氏と美土代町の同建物に行く。岩崎氏の横浜の家も今回戦災に罹りたる由。しかし同氏いろいろの物資を持ち居り、蝋燭、封筒、マッチ、煙草等を贈らる。八時、同氏に送られてここを出で、神田駅まで歩き、同氏に厚く礼を述べて分かれ、東京駅に行き、八番線に上れば関西行の行列あまり長からず、有利なる順位を占め得たり。しかも九時にはすでに列車入り来たり、わずか三十分待ちたるのみにて乗車す。乗客もさほど多からず、二人席を一人占めし得たり。かくて定刻九時五十分発車、ウツラウツラ眠に入る。

6月14日(木)曇天、蒸暑く八十度に至る。午前五時四十五分名古屋着、駅前より電車に乗る。しかるに今池に断線あり、ここにて下車せしめられ、ついに池下まで歩き、ここにて断線の修理を三十余分も待ち、池下より発したる東山行に乗りて、教室に帰着せるは八時に近かりき。菅原氏に逢いその後の情況を聴取、また宿舎のことを聞けばまだ全く解決つかぬも、焼失せる官舎に近く一軒の家を物色し、ここに焼け跡生活をなし居たる老婆を住ましめ、食事の世話を頼み、菅原氏と丁子氏とはすでに三食をここにて取り居るも、ただ先住の人いまだ退去せぬため住居の点は未解決なりとのこと。一方、上田〔良二〕氏〔物理学、1911~1997〕しきりと来泊をすすめられるまま、今夜は同氏方に行くこととす。かくて午後五時過ぎ、上田氏とともに八事の同氏宅に行き泊す。上田氏は夜汽車にて長野県に向かって去る。

6月15日(金)雨。八時過ぎ上田氏方を出で徒歩登学。午後一時半より総長室にて、学術研究会議東海支部科学研究査定会あり。委員一同参集、支部配下の大学および専門学校より応募せる研究の要求額の査定を行なう。まず支部割当四十万円の一割を支部長保留とし、三十六万のうち二十七万を大学および航医研〔航空医学研究所〕に割り当て、九万円を専門校の分とし、各学部、各専門校に適当に振り向け、四時半ごろ終了す。今夜の夕食は菅原君とともに松竹町の例の家に行き、老婆調理の夕食を取る。なかなか煮物等上手なり。食後、菅原君は直ちに東京に向かって出発せられ、予は教室に帰る。今日午前、警報十数目標侵入の情報、じゅうぶん支度用意せしが、みな阪神に向かいたるらしく、名古屋には空襲警報も発せられず無事済みたり。

6月16日(土)晴天、朝食のため七時過ぎ教室を出で、松竹町の家に行く。午前、物理の連中、上田氏方へ疎開荷物を取りに行く幸便に託し、この空リヤカーに予の蒲団を上田氏方に送り置き、今夜より同氏方に泊することとす。留守中に溜まれる米二升四合を小山氏より受け取り置きたれば、そのうち一升二合およびその他の雑品若干をリュックザックに入れ小使野田に負わしめ、四時半教室を出で徒歩八事の上田氏宅に至る。夕食後、久々にて入浴し心気爽やかなり。この数日悩みし下痢も午後よりにわかによくなり気持ちよし。今日は警報なく静穏なり。

6月17日(日)快晴、夏景色。午前九時過ぎ家を出で、八事終点の郵便局にて速達を出し、かつ覚王山郵便局の通帳をそのまま用いて五百円を預け入れ、終点より電車にて今池乗りかえ東山に行く。五十余分を要せり。今日は絶好の洗濯日和なれば、朝のうちに教室にてワイシャツ一枚洗濯す。午後一時半より総長室にて学徒隊結成準備委員会開かれ、これに出席。評議員として小林明教授〔機械工学〕その他、学生主事等にてこの戦時教育令の一項たる学徒隊組織につき協議し、中條専門部学生主事起案の要項を大体承認し、四時半散会。帰途、総長の車に便乗して、八事電車徒歩し山中より乗車帰宿。今日も終日警報なく平穏。

6月18日(月)曇、温度降る。朝、郵便局に立ち寄り、茅ヶ崎の田下氏に速達を出し、徒歩登学。宮部〔直巳〕氏〔地球物理学、1901~1969〕に逢い、昨日の学徒隊第三大隊すなわち理学部隊の組織と人事との案を決定す。午後一時半より総長室にて、過日岡谷〔惣助〕氏〔岡谷鋼機創業者、1887~1965。寄付は日本貯蓄銀行の合同記念〕より寄付の申し出ありたる百万円の使途につきての協議会あり。医学部より勝沼〔精蔵、内科学、1886~1963〕・中島〔實、眼科学、1893~1951〕両教授、工学部より生源寺〔順〕部長〔機械工学、1887~1966〕および野口〔孝重〕教授〔電気工学〕、理学部は予と菅原〔健〕教授出席のはずなりしが、おそらく昨夜の空襲のため汽車の延着か、今早朝着予定のところついに間に合わず。かくて協議の結果、総長腹案の研究所設置はあまり歓迎せられず、本年度使用し得らるる十万円をもって現下研究中の課題にて疎開先設備等にこれを充当することとし、四時散会。車にて山中まで送られ、電車にて帰宿。今暁零時半ごろ警報出で、多数目標志摩半島北上の報あり。てっきり名古屋へ来るものと考え、じゅうぶん支度をなし、手回品、傘、杖など壕に入れ、和子夫人〔著者の姪。上田良二夫人、1918~2003〕も食料その他重要品それぞれ安全を期して持ち出し、空襲警報を待ちしが、次々の情報は来襲せる三十一目標みな名古屋を外れ、一部は東に一部は西に向かい、名古屋はついに警戒警報に終わり、三時十五分ごろ解除となる。夕刻のラジオ報道によれば、浜松および四日市が襲撃をこうむり、市街に火災を生じたる由。また敵の攻撃目標が中小都市に及べるらしきことを警告せり。夕刻、菅原君より汽車故障のため帰名おくれる旨の電報あり。

6月19日(火)朝薄曇り、次第に晴れ午後快晴。朝、電車にて登学。連絡都合よく四十分余にて東山に到着す。帰途は徒歩。菅原君、昨夕帰名の由。これは早朝着のはずを、浜松の空襲にて袋井より列車引き返し、掛川にて待期しかく遅れたるものの由。午後、大阪造幣局の中川氏来訪。Pd〔パラジウム〕問題にてなり。午前十一時半、警報出で、小型編隊志摩半島北上中とのことなりしが、誤報らしく、何のこともなく間もなく解除。夕食後、入浴。

6月20日(水)朝曇、のち晴れ。今暁零時ごろ警報、情報を聞けば多数目標、志摩半島北上とのこと、支度し例のごとくリュックザックを壕に入れ、和子とその他の重要品を運び出しなどす。間もなく空襲警報となる。しかし、つぎつぎ五十一目標までも敵機いずれも東進してついに名古屋に現われず、主として豊橋および静岡を焼夷弾攻撃をなし、午前四時に至りてようやく解除となる。昨暁は四時に起こされ、今日は夜半より四時過ぎまで起こされ睡眠不足を極む。しかし攻撃を蒙るに比すれば遥かによし。たださんざん蚊に食われたるには閉口す。午前九時過ぎ徒歩にて登学、午後一時半より評議会。寄付金の件、学徒隊の件、疎開の件等を協議、五時半終了。総長とともに医学部の車に送られ帰宿。夕食後、良二氏長野県に旅行より帰る。夜、入浴。

6月21日(木)晴天。朝、良二氏とともに徒歩登学。動物飼育室に行き、■■ズボンを入れ、夏服一着と夏シャツ上下とを出す。九時半ごろおよび十二時ごろ、一機ずつのため警報出づ。いずれも名古屋上空に来たらず。午後三時半より化学談話会。当番、木村(大学院学生)および深尾(学生)。五時おわり。今日は荷物を携えたるをもって、帰途電車に乗る。一時間と十分を要せり。

6月22日(金)半晴、蒸暑し。午前八時十五分ごろ警報発令。遠州灘、御前崎、志摩半島等の南方に敵数目標北上とのこと。徒歩登学。九時ちょうど、教室の坂下まで来たりし時、空襲警報となる。そのまま総長室外の新設壕に鞄と傘とを入れ、情報を聞けば大部分、西もしくは東に行き、若干は名古屋方面に来るらしかりしゆえ一時壕に入りしも、情報はやがてこれら敵機みな南下脱去し、名古屋は安全となりしをもって壕を出づ。かくて十時前空襲解除、間もなく警戒も解除となる。今暁一時前にも警報出で、これは数十機にして、みな北陸沿岸、若狭湾、敦賀湾、伏木、新潟等に機雷投下ののち東下し、名古屋は安全。一度壕に重要品等入れしが、間もなく持ちかえり二時ごろ就寝す。午後一時より教授会。主として学徒隊編成の件、疎開の件等を協議し、学研東海支部研究費査定の件、旅費の件等を報告し、四時半ごろ終了。総長の車に同乗、山中まで送られ帰宿す。夕食前、入浴。

6月23日(土)午前曇天、午後雨。朝、良二氏とともに徒歩登学。途に二尺ほどの蛇を捕らえ、夕食に付け焼きとして食う。案外淡白にしてうまし。午前七時半ごろ、八時半ごろ、十時ごろの三度警報出づ。いずれも一機ずつにして名古屋には来たらず。夕刻のニュースによれば、多数のP51水辺より侵入、茨城県下の飛行場を攻撃せりと。菅原氏より配給の米三升を受け取る。事務の戸田氏より鶏卵五個(第二回目)を入手。今夜、良二氏宿直。帰途電車都合悪く、一時間以上を費やす。

6月24日(日)終日大雨。朝、八事郵便局に行きしに、日曜閉鎖中なり。電車にて今池に出でしに、千種郵便局は開き居れり。ここにて七百円を郵便貯金とし、さて東山に行かんとせしに、三十余分を待てども電車来たらず。歩き来たれる兵隊に聞けば、東新町の処にて大断線あり、急には修理出来難き状態なりとのことに、雨中を徒歩にて東山に向かう。仲田まで来たりし時、後方よりオートバイ貨物来たる。件の兵士および他の二人、これを止めて便乗す。予もすかさずこれに頼み便乗し、一気に城山まで来たり、兵士とともに■■礼を述べ登校す。大いに助かる。昼は自ら飯を拵え、弁当を済ます。菅原氏、今日より松本へ行くはずなりしが止めたる由にて登校せられたり。帰途は電車信用できねば徒歩にせんかと思いしも、あまり雨激しければ、また東山終点に行く。幸い電車来たり、これに乗り発車せんとする途端停電となり、二十余分立ちん坊ののち発車。全く名古屋の電車には閉口なり。今日は零時、二時、十一時の三度警報出でしも、いずれも一機ずつなり。昨日より八事は停電して電灯つかず。夕食後間もなく就寝す。

6月25日(月)半晴、乾燥気持ちよし。今日は往復とも徒歩す。今日にて四度。良二氏にビタミンの注射を施し貰いしため、この二年ほど毎夏感じたる脚部の浮腫なく足軽ろし。昨夜は警報なく安眠。午前十時半ごろ一機頭上通過のため警報出づ。夕食後入浴。

6月26日(火)曇、蒸暑し。昨夜十一時二十分、警報出づ。停電中にて情報わからざりしも用意だけをなし置きしが、間もなく空襲警報となり、重要品を壕や橋下に運ぶこと例のごとし。情報の口達を聞けば、十五目標志摩半島北上とのことなりしが、結局みな若狭湾に機雷投下をなし南方に脱去。かくて寝ねたるは二時なりし。今朝、例刻に起き、七時食事これを終わり、食卓にて雑談中、七時半ごろまたまた警報、また用意例のごとし。情報口達によれば多数機志摩半島北上中にして、しかも方向は名古屋らし。九時近く空襲警報出づ。良二氏は午前に自転車にて登学。予は見合わせ居りたるが、ついに名古屋は久しにて爆弾襲撃を蒙り壕中にて壕をゆすぶる爆発音しきりなり。中には相当近きものもあり。しかし主として南方および北方にして、幸い八事に近きものなし。今日は時限爆弾多く投下音後大爆音起こることしばしばなり。かくて十時ごろ敵機去り壕を出で見れば、熱田と思わるる方面、大曽根か千種工廠と思わるる方向に黒煙騰れり。十時半、空襲解除となりしをもって用意品を家に運び入れ、登学の途に上りしは十一時。徒歩三十五分を費やし着校。空腹に弁当のうまさ。昼食後、椅子に寄りて三十分ほどうちねむりして元気を回復す。昨夜半外出して月蝕中なるを知る。九分以上蝕せり。

【重複】
6月26日(火)曇天。朝食を終わり、なお食卓にて雑談しつつありし午前七時半ごろ警報鳴る。良二氏は急ぎ自転車にて登学し、予は形勢次第と支度をなし用意したるに、敵編隊南方海面より志摩半島北上とのこと。その一部は西進せしが、大部分はついに名古屋方面に向かい、一時過ぎ空襲となり和子氏と壕中に入る。爆弾の轟音しだいに近づき、その落下のザーという響きとともに、壕をゆする爆発音しきりに至り、不気味なること限りなし。しかし幸いついに八事には落下せるものなく、約一時半ほどして敵機の数も減じ、十時ごろには静穏に帰し、十時半、空襲解除となる。十一時、家を出で徒歩登学す。幸いに東山も無事なり。後に良二氏に聞けば、市内にては滝子■近辺盲爆を受け、被害相当なりしと。帰途を電車とし今池まで来たれば、驚くべし、八事線朝より停電なりと。これには閉口し、やむなく歩き出し、ようやく川原通まで来たりし時、僥倖にもトラックを捕らえ得。八事終点まで載せ貰い、大いに助かる。

6月27日(水)曇天。昨夜十時半ごろ警報出で、またまた十五目標南方海面より北上という情報なり。一月のうちに二度来襲ありたることは珍しき例なり。例のごとく用意して壕に入りしが、結局名古屋市上空には来たらず。ただし西方より家をもゆする爆発音しきりにして、不気味なること限りなし。これは津、四日市あたり軍事施設を爆撃せるなりと。かくて今暁十二時半解除となる。良二氏、■の中央線にて甲府に向かうため、みな早起きし、同氏は五時家を出で出発。予は今日菅島〔臨海実験所、著者は所長兼務〕行のはずなりしが、八事線なお動かぬため中止し、電報を打たしむるため七時半徒歩登学。八時過ぎ着したるが、事務員誰も居らず。九時過ぎ、ようやく菅島に打電し得たり。間に合いたるや否やと気遣わし。江上〔秀雄〕学生課長と相談のうえ、明日宇治山田まで行くこととす。帰途も徒歩。夕食前入浴。今日午後、菅原、森野〔米三、化学、1908~1995〕両氏、松本に向かう。

6月28日(木)快晴、爽やかなる夏景色。五時起床。昨夜大方支度を調え置きたるも、なお部屋の整理等し、六時過ぎ食事して待つ。七時半、巡視、自転車にて荷物を取りに来たる。これにリュックザックと風呂敷包一個とを頼み、予は手提一つを持ち七時半家を出で、八事の終点に至ればちょうど電車の出るところなり。急ぎこれに乗る。今池の乗り換えも好都合にて、幸いに名古屋駅行なり。名駅に着したるは八時二十分、すなわち家を出でてより五十分は珍しく好成績なり。十分足らず待ち自転車も着、荷を受け取り赤帽に托す。発車は九時四十八分。湊町行ゆえなかなか込み合う。少々乗車にまごつきたるため座席なく立ち居たるも、三十分ほどして長島にて座席を得たり。十二時少し前、亀山着。直ちに同じホームにある汽車に乗り換う。偶然この客車に生源寺〔順、工学部長、1887~1966〕君その長男と■■あり。乗車後、それぞれ弁当を喫しひと息つく。一時ごろ宇治山田着、下車して総長および江上学生課長に遇う。生源寺氏父子は■■に行き、予等は駅前の油屋支店にて小憩。予は部屋の約束なければ電話にて本店に交■し貰いしに、よろしとのこと。総長と江上氏とは参拝にまわり、予は荷物多ければ、内宮行電車にて大和姫神社前下車。登り途を油屋■店に向かう。この道中に長く重■■荷が肩にめり込むごとく■し相当閉口す。江上氏、神宮参拝をおわりて来着。宇治山田ではさぞ魚の食えることと思いしに、全然生臭気なく全くの精進料理なり。宿には米なき由にて二合を提供す。今夜三回警報あり、いずれも一機。

6月29日(金)曇、夜に入り雨。午前八時、旅宿の払いを済ませて出発、神宮皇学館大学に行く。ここにて山田学長以下の幹部と逢い、雑談等するうち、追々参加者各地より参集。十一時、大日本教育会東海特設支部幹部会開会、本部ならびに支部よりの議案を協議し、大体午後一時過ぎに終了し、一同昼食。生源寺氏は食事前に退席、総長は食事後二時ごろ退席、いずれも帰名。予と江上氏と残り、午後二時より参加者とともに懇談会に入り、参加者より質問、希望、開陳等あり。主として共済施設に関するものなり。予は三時半退席、このとき本省より糸魚川教学官来着。何か指示ありしはずなり。予は昨夕菅島に打電し置きしため、菅島に向かうべく大和姫神社前より電車にて外宮前停留場に至り、油屋支店にて小憩の後、鳥羽行の午後五時発の汽車に搭ず。三十分にて鳥羽着、出口近くにて、名古屋に行きいま帰島の椙山〔正雄〕氏〔発生生物学、1908~1993。臨海実験所の寄付者でもある〕と一緒になり安心す。迎えの船にて渡島、高嶺氏等あり。入浴の後、高嶺、椙山両氏および四人の学生と夕食をともにす。ここにはさすがに魚あり。久々にて海の幸にありつく(メバルの煮付および章魚、蕗の煮付、沢庵)。夜、両君と快談。九時半、寝室に入る。今日は山田にて午前十一時過ぎ警報出でしも一機にて、間もなく解除。夜十一時ごろ警報、情報によれば十余目標志摩半島北上とのことなりしが、みな若狭湾および敦賀に機雷投下ののち間もなく南方に脱去せり。就寝せるは今暁一時過ぎ。

 菅島の旅寝のめざめ帰るべき故郷なきをかこちけるかな

 伊勢の海や菅の小島に来て見ればここも戦の庭にぞありける

6月30日(土)終日雨天。高嶺君、午前十時半ごろ島を去って帰名の途に上らる。今日は雨天のため引きこもり、ヴェルナドスキー〔Vladimir Ivanovich Vernadsky、ウクライナ出身の地球化学者、1863~1945〕翻訳に終日を費やす。したがってだいぶ進行す。朝食、海苔と若芽味噌汁、たくあん。昼食、小鯖の開き、馬鈴薯煮付、沢庵。晩食、鯖開唐揚、馬鈴薯と胡蘿葡の精進揚、馬蹄螺の煮付、胡瓜モミ、沢庵。夕食後、雨間に椙山君と海岸および山道を散歩。帰宿すれば研究所宿泊中の軍隊の部隊長野月中尉来訪。九時半まで快談し行く。夜十一時過ぎ一機通過、警報あり。

7月1日(日)朝雨のち止み午前中雨間ありしが、午後また雨となり降りつづく。雨のため篭居、翻訳続行。昼食後、学生の作業場に行き、雲丹の受精の様子を顕微鏡下に見る。午後、昼寝、勉強。朝食、海苔、若芽味噌汁、沢庵。昼食、鯖開塩焼、荒目煮付、沢庵、雲丹。夕食、すずき刺身、メバル煮付、胡蘿葡煮付、菜ひたし、雲丹、沢庵。昼間三度警報出づ。いずれも一機もしくは二機、間もなく解除。夕食前入浴。

7月2日(月)午前雨、午後止み曇り。午前十一時より昼食まで、生物学生四人のために「地球化学と生物」なる題目にて簡単なる講義をなす(学生、高橋、平井、大野、渡辺)。朝食、若芽味噌汁、海苔、梅干。昼食、小鯖開塩もの、若芽煮付、沢庵。夕食、スズキ切身塩焼、小鯖煮付、馬鈴薯煮付、たくあん。

 菅島の磯わの雲丹をなつかしみ命しあらばまた帰り来ん

 菅島の磯の岩間に雲丹はあれどまたも来て見ん冬ならなくに

 菅島の磯の岩間に雲丹しあれば命かけてもまた行きて見ん

昼食後ちょっと午睡、その間に一同釣りに出掛く。人が呼びたるように覚え、出て見ればすでに形影なし。村田の細君、磯を廻りて呼びに行きくれ、船迎えに来たる。学生渡辺、船暈のため下船、予と代わる。すでに二十余尾も鯖の漁獲あり。さて漁場変わりたる■■■かからず。たびたび船の位置を変え、ようやくぼつぼつかかる。予も五尾を釣り上げたり。かくて四時半ごろまでに三十尾を得、船を戻す。上陸せるは五時、直ちに夕食。その食膳にただいまの海の幸早速に出でたるは村田細君の才覚なり。あらかじめ支度を調え置きたれば、六時、一同に別れを告げ島を去り鳥羽に上陸、直ちに停車場に至れば東京行の列車横たわれり。二等車は乗客二三名のみ。六時四十五分発車、うとうと明るきうちより眠り、悠々と旅す。名古屋よりも乗る人あまり多からず、結局二人座席を一人占めに終わる。また、夜中警報もなかりしごとし。

7月3日(火)朝曇小雨、午後晴れ。この列車は小田原発後は各駅停車とのことにて、小田原通過後弁当を食べ、そろそろ支度をなし、午前五時四十五分茅ヶ崎着。ところが霧雨降り居り、荷物は両手と背にあり、少々閉口したるが車屋も寝ね居りて如何ともする能わず。一つの荷を紐にて肩より掛け、歩き出す。なかなかの重量にて一歩一歩方にめり込むごとし。虫の這うようにようやく家に着けば、南雄夫妻あり。聞けば十三日、予の離茅と入れかわりに来茅したるものの由にて、しかも両人かわるがわる発熱のため、滞在長引きたるなりと。しかし久々の一家団欒に昼食も賑やかなりき。

7月4日(水)午前曇、午後晴模様なりしが夜に入りまた雨。午前、散髪のため停車場南口の三軒の理髪店を歩きしが、二軒は休み、一軒は坊主刈り以外はせずとのことにて、これには失敗。■■牛乳屋にて二合の牛乳を取り、金物屋にてステンレスの果物皮剥き等を買い、昼前帰家。今日は南雄東京へ出るはずにて、昼食後家を出でしが、途中警報に逢い、これがP51の来襲とのことにて帰り来たり、東京行をやめとす。予は午後種まきをなす。

7月5日(木)午前曇り小雨、午後晴れ、温度昇る。南雄夫婦いよいよ秩父に去るため、一同早起き支度に急がわしく、充分の食糧を携えて九時家を出でんとするところへ、かねて頼み置きたる鈴木より鯖七八寸ほどのもの三尾(五円)を届け来たる。大急ぎにて腸を抜き、二尾を秩父への土産として持たせやる。かくて九時十分ごろ、二人は二十余日滞在の後、出発し行けり。今日は味噌の配給とのことにて、午後三時ごろ半鐘前の煙草屋に味噌を取りに行く。十余人の行列の後につき、一時間ほど待ちて百八十匁ほどの味噌を二十七銭にて買い帰る。配給物のお使いは初めての経験なり。

 配給の味噌を取りたる帰り路雲雀の歌にしばしたたずむ

午後、神奈川県外事課の人来たり、また軽井沢別荘を外人収容所として使用したしとの申込みをなし、神奈川県知事より南雄あての手紙を持参せり。聞けば、もし別荘提供を承諾すれば、適当の土地に適当の家屋を代替的に探して、荷物も国家の手にて運搬すべしとのことなり。考慮し置く旨を答えて帰す。

7月6日(金)午前曇天、午後晴天。散髪を目的として午前十時半ごろ家を出で、停車場北口に出で左折一町ほど行きたる理髪店に行く。十一時前なるに、二人の女理髪師、剣もほろろに今日午前はもうできませんと言う。そう言わず一人だけ頼む、わざわざ東海岸からこの店目当てに来たからと、構わず腰を下ろす。今度は、長髪は絶対やりませんとうそぶく。こちらも鋏を使わなくともよい、ただまわりをバリカンで短くしてくれればよいと応酬、先方もついに兜を脱いだ体なり。二人ほどの水兵の顔そりが済みて、かかってくれるところへこの理髪店の女将出で来たり、それでも鋏でバリカンと手をつけぬ部の間を適当に剪ってくれ、ぞんざいながら■■散髪はできたり。帰途、薬局にてエノサン二個を、林屋にて七月分の塩を、牛乳屋にて牛乳二合を取り、正午ごろ帰家。今日は十時過ぎおよび十一時半ごろ、二度警報出づ。第二の場合には空襲警報も出でたるが、このあたりは静かなりき。名古屋より多数の手紙を速達にて回し来たる。うちに加福〔均三〕氏〔化学、1885~1948〕の手紙あり、罹災せる■■にしてずいぶん危険なる目に逢いたる如し。

7月7日(土)夜来の雨朝やみ、午前曇り、午後晴模様。零時少しく過ぎ、警報しかも空襲警報にて目覚む。多少支度して床に入る。しかしこのあたりは静かにして高射砲の響きもなし。二時過ぎ解除。午前八時、小橋氏二男応召のため出発とのことにて、朝食後急ぎ同氏の門前に行けば、一行はすでに一町ほど出発せり。急ぎ追いつき、挨拶を述べて別れ帰る。午前十時過ぎ家を出で、牛乳屋に行きて牛乳を取り、海岸郵便局にて速達二通を出し、その先の薬局にてB1注射液五十筒を七十円にて求め、金物屋にて真鍮折釘等求め、十一時半帰家。午後、南美子とほど近き田村医師を訪い、過般南雄夫婦病中の謝礼を置かんとせしが、不在とのことにて空しく帰る。今日は昼間珍しく警報なく、至って静穏。しかるに夜十時ごろ警報出で、空襲警報も出でしが、一向静かにして十二時ごろ解除となる。

7月8日(日)午前曇り、次第に晴れ午後快晴、温度も昇り風爽やか。今日は終日在宅。南美子、牛乳取りに行き二壜貰い来たる。正午ごろ突然空襲警報出で、小型機らしくこの近辺にて機砲、高射砲盛んに唸り、爆音もしきりに聞こゆ。午後二時前、解除となる。

7月9日(月)晴天、温度昇り全くの夏景色。今日は学振の委員会二つあるため、午前十時家を出で十時四十分発に乗り、東京駅にて中央線に乗り換え御茶ノ水下車。徒歩、学士会館に行く。時に十二時半、直ちに食堂に入り、第十七特第十二分科の人々とともに昼食す。今日は出席少なく、田中、亀山、斯波、荒井、山本の諸氏と予のみ。食後、委員会開催、問題を検討し、荒井氏より、Pd■■等については特に軍需省としてはその品位確定法の検討を望まずとの提言ありしため、第十二分科を終了解散することとす。なお、第十七特も改組の必要あるため、本委員会を来たる二十八日に開くべく申し合わせ、二時前散会。次の理事会および常置委員会議、四時より開かるるはずゆえ、いったん町に出で、冨山房にて書籍二冊を求め、また学士会館に戻り少しく待ち、四時半右会議開会。主として地方支部の問題を議す。五時半ほぼ了わりたるも、なお雑談長引きそうなれば予は先に退席し、先の食堂に入り夕食を急ぎ済ませ、電車にて水道橋に出で省線にて東京駅に至り、六時二十五分発静岡行にて帰茅したるは七時四十分。徒歩、八時帰家。今暁以来三度警報出でたるも、一機ずつなりしが如し。

7月10日(火)晴天。今日は海軍科学技術審議会、午前九時半よりあるはずなれば、四時半に起床、朝食の支度をなし居る最中、五時十分警報鳴る。じつは昨日亀山氏より大機動部隊レーテ島より北上の情報を聞き居りしゆえ、時間より判断してこれに違いなしとその心構えにて、あるいは今日の上京は見合わせにせんかと思い居りしに、果たして六時前空襲警報となる。朝食後、中泉氏に情報を聞きに行きしに、やはり機動部隊よりの小型機多数の来襲とのことなり。しかし七時半に空襲解除となりしため、とにかく行けるところまで行き見んとて、すぐに家を出で停車場に至れば、少しく待ちたるのみにて七時五十九分発の列車来たる。これに乗らんとせしも乗客多く、ようやく窓より車内に入るを得たり。大船あたりにてまた警戒警報出で、品川駅乗り換えの際、空襲警報となり、退避命令にて黒山のごとき乗客、強制的に停車場外に追い出さる。その雑踏、名状すべからず。やむなく大衆は一応停車場外に出でたるもどこに退避すべきか一向にわからず、右往左往し居るところへ今度は警官の叱咤来たり、疎散せよ疎散せよと一向を追い散らす。予は東横デパートの軒下にへばりつき、なるべく駅より遠からぬことをつとめたり。かく待機すること三十分ほどなりしが、一向に敵機の姿なく、一向はまた黒山のごとく駅の入口に殺到す。しかし警官、駅員、警防団等、入口に頑張り、防空要員以外は一切駅内に入れずと声をからして叫ぶ。その手形を持つ者ぼつぼつ入場す。予は海軍の身分証明と学士院の切符を見せて、難なく入場し得たり。プラットフォームに出づれば資格者のみ少数にて、至って閑散なるところへすきたる山手線来たり、恵比寿駅まで楽々と至り得たり。しかしこの騒ぎにて時すでに十時、技研に到着したる時は審議会すでに開始せられ居たり。今日は及川〔古志郎〕大将〔1883~1958〕、加藤〔隆義〕大将〔1883~1955〕に代わって出席せらる。報告書の審議と新問題の討議の後、正午散会。一同昼食を共にし帰途に就く。幸い支障なく品川駅より一時九分発米原行に乗り、藤沢まで来たりしに列車一向動かず。初めは貨物積み入れのためかと気にもとめざりしが、あまり長引くゆえ女車掌に聞けば、この列車は藤沢にて一時間と十分停車して博多行に変更せらるるなりとのこと。唖然としたるも致し方なく、車内に居すわりて便々と時の至るを待つ。ようやく時来たり発車し、茅ヶ崎に三時二十分ごろ着。徒歩帰家す。藤沢にて空襲警報出でたるまま、なかなか解除とならず。帰家後、編隊通過せしと見え、盛んに高射砲唸る。全くよき間に帰り■■れるわけなり。今日一日はいろいろのことを経験せり。

7月11日(水)雨。午前十時半家を出で、まず牛乳屋に行き牛乳二壜を貰い、ついで郵便局にて用を達し、■■小口扱にて転出者荷物送り申込をなさんとせしが、取扱者不在にて用を弁ぜず、空しく帰る。朝、紀本氏母堂来訪。先日来懸案なりし紀本和男氏と名古屋高松定一氏〔師定商店、1889~1948〕令嬢との結婚談まとまりたる由にて、十四日結納、十八日婚礼とのこと、十八日には在名中ゆえ右結婚式には出席する由約束す。なお、母堂庭園丹精の桃をたくさん到来す。午後、警視庁外事課刑事木村氏来訪、相変わらず軽井沢家屋の件なり。だいぶ高飛車となり、軽井沢にては疎開者に配給を杜絶せしむるとか、戦時臨時措置法によりあるいは家屋収容を行なうとかをほのめかせり。しかし代替家屋提供、荷物運搬等は国家の手にて行なうゆえ、なるべく早く返事を乞う旨述べ、家屋賃借契約書を置き行く。

7月12日(木)曇天、東南風強し。低気圧のためか、今日は機動部隊よりの小型機の来襲なし。今日は帝国学士院の常会日なれば、午前十時家を出で停車場に行き、十時四十分発に乗る。横浜にて同車内に姉崎〔正治〕博士〔宗教学、1873~1949〕あるを知り、一緒に行く。大学に到着せるは十一時半。予は教室に行き南、野口両君を訪ねしに、両君とも不在。小使室にて弁当を喫し、一時過ぎ、図書館内の学士院に行く。参集者、相変わらず少なし。総会にて研究報告および紹介あり。ついで二時半より第二部会に移り、故・丘〔浅次郎〕博士〔動物学、1868~1944〕の後任として五人の候補中より三人を選挙し、岡田要〔動物学、1891~1973〕、駒井卓〔遺伝学、1886~1972〕、大島広〔動物学、1885~1971〕の三君当選す。これを終えて再び総会に移り、故・平山〔信〕博士〔天文学、1867~1945〕、故・西田〔幾多郎〕博士〔哲学、1870~1945〕の追悼演説、それぞれ萩原〔雄祐、天文学、1897~1979〕、桑木〔厳翼、哲学、1874~1946〕両博士によりて行なわれ、四時散会。直ちに姉崎、桑木両博士と東京駅に行き、四時四十分豊橋行に乗る。姉崎博士は片瀬在住のため藤沢下車。桑木博士は茅ヶ崎しかも東海岸に現住の由にて、一緒に茅ヶ崎下車。帰家すれば鈴木高子夫人〔著者の義妹〕と南雄とあり。久々の会合にて、その後の互いの消息の語り合いにて賑やかに夕食す。

7月13日(金)夜来風雨相当に激しく、今朝なお豪雨なりしが午前中にやみ、午後は晴模様となる。今日は目黒海軍技研に安定剤の戦研会議あり、出席のはずなりしが朝来の悪天候に見合わせ居るうち、午前十時よりの右会議に間に合わなくなり、ついに上京を見合わせ終日在宅す。南雄は正午ごろ出発上京し、鈴木夫人は午後五時ごろ出発帰■せらる。南雄は夕刻、保険の用を済ませ帰り来たる。昨夜十一時過ぎ警報出で、やがて空襲警報となりしが、今日聞けば百数十機のB29、京浜ならびに宇都宮等を空爆せりとのこと。

7月14日(土)曇天。午後一時より文部省に特別研究生詮衡委員会ありて総長代理として出席のはずなれば、午前九時四十分茅ヶ崎発にて出発す。今日はそのまま夜汽車にて帰名とし、すべて支度を整え、リックザックを背負い二個の手提荷物を携え、家を出でたるは正九時。汽車二十分ほど遅れて到着、したがって東京駅に着せるは十一時半なり。直ちに三菱信託に行き保険金全部を信託にせんとせしに、保険金は信託にする能わざる規定にて、銀行に行き特殊預金にするほかなしとのこと。やむなく向かいの三菱銀行本店に行き、小切手六千円を一ヶ年の定期とし、七千円ずつを、一を南雄、一を予の名義の特殊預金とす。書類作製の間にベンチにて弁当を喫し、書類を受け取り、電車にて文部省に行く。各大学より代表者参集。総長の出席せるは東京、九州、早稲田のみ、他は代理のみなりき。かくて第一期および第二期特研候補者の詮衡に入り、結局定員は固定せるものゆえ順位により機械的に打ち切りを行ない、四時半散会。予は今夜鳥羽行にて出発までの時を中野の南氏方にて休息かたがた過ごす約束ありたれば、虎の門より地下鉄にて神田駅に出で、省線に乗り代え中野下車。少しまごつきたる後、打越一番地の南氏宅をようやく探し当て、訪えば南、野口両君、夕飯の支度に余念なし。しかし男手の自炊なれば運びも遅く、夕食となりたるは七時過ぎ。酒等出で、その他にも杏子や林檎の干したもの等も出で、歓談するうちいつか時間経過し、時計を見ればすでに八時を過ぎたり。これでは鳥羽行にはとても間に合わず。両君しきりと勧めらるるまま、ついにここに一泊することとし、腰を落ち着け煎り豆など齧りながらまた談笑し、二階に延べられたる床に入りたるは十時半ごろなり。夜半三度警報にて覚めたるも、一機にて間もなく解除となる。

7月15日(日)曇天、蒸暑し。今日は八時半発の急行にて帰名とし、五時起床。昨日、茅ヶ崎にて作り来たりし弁当を朝飯代わりとし、野口君がさっそく調えくれたる味噌汁の一椀を喫し、六時、両君に中野駅まで送られ出発す。東京駅にてはさすがに行列の前頭に近かりき。二時間を待ち、発車。このとき警報出でたるもB一機にて、品川あたりにて解除となる。しかるに静岡あたりにて再び警報出で、天竜川駅にて多数小型機知多半島北部にありとの情報にて二十分ほど待避し、また出発。名古屋に着したるは三時四十五分なり。電車の都合も比較的よく、八事の上田氏方に無事帰着せるは五時。今日は総長夫人、女中引率、上田氏方の片付けを手伝いに来られたる由にて、大体片付き居たり。来月より、この家に総長も引き移らるることに決定せる由。夕食前入浴。十時半就寝せんとせし途端、警報出で一機の志摩半島北上を報ず。この機、三重、岐阜、愛知、長野、石川、富山の諸県上空をうろつき、なかなか解除とならず。十二時半ごろようやく解除となる。

7月16日(月)曇天、蒸暑し。登学退学ともに徒歩。午前、総長に逢い、文部省会議の報告をなす。菅原君上京中にて不在。今日、紀本〔和男〕氏〔物理学、1916~2004〕母堂、来名とのこと。上田氏宅に泊せしめる準備をなし、予もやや早めに帰宅せしが、所定の列車にて到着せざりし由。迎えに行きし人、空しく帰る。夕食前入浴。正午ごろ小型機二十数機侵入の由にて警報出でしが、名古屋には来たらず。午後一時半ごろ解除となる。

7月17日(火)雨、温度低し。朝、徒歩登学。帰途は電車。菅原君なお帰名せず。昨夜の空爆にて沼津以東汽車不通の由ゆえ、恐らく足止めを食い居らるるなるべし。なお、明日結婚式を上田氏宅にて挙ぐるはずの紀本氏も帰名せず。上京後帰西、京都にありし山崎〔一雄〕氏〔化学、1911~2010〕、帰名登学。夕食後入浴。

7月18日(水)午前曇天、午後晴天、涼し。登学退学ともに徒歩とす。今日は紀本氏と高松嬢との結婚式を午後より上田氏宅にて挙ぐる手筈にて、予が紀本氏父親代理として参列すべく予定し居りたるに、空爆のため東海道不通にて今日の昼ごろまで花婿帰名せず。予、午後一時、教室を出で帰寓したるが、こんなわけにて今日の式は中止となり、上田夫妻は結納を高松氏方に持参し、明後日挙式ということになる。ところが夕食のとき紀本氏母堂とともに到着せりとて報告に来られ、吾人もようやく愁眉を開く。紀本氏母子は沖野屋〔八事興正寺の門前にあった旅館〕にて夕食を済ませたるのち来訪せられ、母堂は上田氏方に泊せらる。今暁零時過ぎ警報出で、約十目標志摩半島北上とのことにて、間もなく空襲警報も出でたるため、支度して外出し壕に入る準備をしたるも、結局みな若狭湾敦賀等の方面に行き、また続々南方に脱去し、二時ごろ解除となる。

7月19日(木)晴天爽やか。午前八時半ごろ家を出づるや警報出づ。そのまま歩して登学。小型機来襲の由にて間もなく空襲警報出で、爆音切に聞こえ始む。興正寺手前にて一度、道路はだの横穴壕に入りて数分を待ち、爆音の遠ざかるや直ちに歩き出す。興正寺寺門を入るや、また爆音近接す。門内の樹下に腰を下ろしてその遠のくを待ち、再び歩き出す。〔五重〕塔の傍らより登りたるところにて、三度爆音のため一民家前の墓蔭にしゃがみ込み、その民家のラジオを聞けば、目下名古屋市上空にて彼我戦闘機交戦中とのこと。間もなく爆音やみたれば、この隙にと一番厄介なる運動場を横切り大道に出づ。大道歩行中も一度爆音雲中より聞こえしも、東より西に通過し終わる。大学構内に入りし時、空襲解除となる。時に十時、坂を上り教室に入り、ひと休みしたる時、警報も解除せらる。菅原君なお帰名せず。総長、今日は休養のため登学せず。研究会議、研究費割当のことにつき林書記と、特研生のことにつき丁子事務監と、それぞれ会談す。帰途は電車とす。夕食後、高松嬢来訪、紀本氏母子も来会。明日の式および式後のこと等、相談済む。良二氏は湯の山に行き、今夜は一泊の由。紀本氏母堂は沖野館泊。

7月20日(金)午前曇り、午後雨。朝、徒歩登学。午前九時より総長室にて評議会あり。今日は割合に出席率よく、工学部の外山氏欠席のみ。主として名大庶務規定改正の件を議し、事務呈出の案を修正。予より特研生銓衡会出席の結果を報じ、正午前散会。昼食小憩後、徒歩にて帰寓す。今日は午後三時より紀本高松両家婚儀、高松氏宅にて行なわれ、予は紀本氏父親代理として参列の約あり。帰寓後、国民服に着代え、小憩するうち紀本母子も来会。二時半ごろ紀本母子、上田夫妻とともに雨を冒して徒歩、昭和区広路町の高松氏宅に行く。このあたり鬱蒼たる樹林にてほとんど林間を行くごとく、邸宅等ありとも覚えぬ静寂区域なり。高松邸も同様、林中に位し、家は旧きも極めて凝った茶席風の建築なり。一同参集したるも、頼みたる神主来たらず。やむなく上田夫妻が式を司る手筈としたるところへ神官ようやく来たり、愁眉を開く。四時前、式場に入り着席。型のごとく神官の祝言にて式は始まり、めでたく新夫婦三々九度の杯、親子の杯、親戚同志の杯等も済みたるは四時半。一同小憩後、八事八勝館に席を移し、夕食の饗あり。高松氏の顔にて頼みたれば、時下としては相当の御馳走あり。ただし米は一同より一人一合ずつ提供せり(ハゼ焼物、鶏肉刺身、野菜甘煮、鰻蒲焼、味噌汁、飯)。歓談の後めでたくお開きとしたるは八時半。新夫妻は八勝館泊。紀本母堂、今夜は上田氏宅に泊。菅原氏、昨夜遅く帰名の由。しかし予が帰宅を急ぎたれば、■■のことは明日として分かる。今日は警報二度出でたるも、名古屋は静穏、夜も警報なく安眠。

7月21日(土)昨日来の雨、終夜降りつづき、やむ景色もなく今朝もかなり降り居りしが、十時ごろより嵐模様となり、東南の強風に乗して豪雨来たり、荒れに荒るること三四時間。午後三時ごろよりようやく収まり、夕刻は無風となり晴れに向かう。今朝はやや早く登学する必要ありたるため、大雨にもかかわらず徒歩としたるに、道路泥濘、加うるに風しだいに募り、満身ぬれねずみとなり、レーンコートも透すほど。また靴は水づかりとなり、心地悪きこというべからず。十時、教室にたどりつき、ひと息つく。帰途は電車不通とのことゆえ、また歩く。道路は大体水引きて大いに歩みよくなり居たるも、なおぬかるみて大いに疲労す。午後一時半より教授会。ほとんど全教授(黒田〔成勝〕氏〔数学、1905~1972〕を除く)出席、人事として物理に関戸〔弥太郎、1912~1986〕を教授として推薦あり。その他報告事項、疎開地報告等あり。四時半散会。良二氏、切原〔上田研究室の疎開地、現在の長野県佐久市〕を経て甲府、逗子等に行くため、夕食後八時過ぎ出発、三十日帰名の由。荒天のためか、今日は終日ならびに夜、警報なし。ただし八事は停電にて、銓方なく夕食後良二氏を送り出してのち間もなく就寝。

7月22日(日)晴天、西南風涼し。往復とも徒歩。昨日菅原氏より配給のパンを受け取り、また戸田氏より馬鈴薯一貫六百を入手したれば、今日より弁当を持参せぬこととす。ところがパンはやや古かりしため中央部腐敗しかかり居り、捨てるの余儀なきに至る。なお、今日配給の味噌、醤油、玉蜀黍等、受け取り持ち帰る。昨夜は警報なく安眠す。今日早朝および昼、警報出でたるも、何のこともなく経過。午後より夜にかけ静穏。夕食後入浴。

7月23日(月)晴曇不定、夕刻驟雨あり、すこぶる涼し。今日は往復とも電車とす。菅原君より配給ものとして、一昨日米、昨日味噌醤油、玉蜀黍、今日芋粉等、受け取る。戸田氏より鶏卵五個入手、昨日は馬鈴薯一貫目入手(卵は一個一円五十銭、ジャガは一貫八円の割)。昼、警報出でしも一機の偵察らしく、午後はなし。

7月24日(火)午前曇り、午後晴れ、風あり、すこぶる涼し。午前六時十五分ごろ警戒警報出で、やがて空襲警報となる。主として艦載機の由にて、わが飛行場攻撃を主目的とするごとしとの情報なり。小型機ならば退避も簡単と、午前八時過ぎ徒歩にて登学。途中一度も爆音聞こえず。九時前無事に教室着。今日は出席者稀少、殊に事務方面は長谷庶務掛長が宿直にて居残れるほか、誰も来たらず。学生もほとんど影なし。午前十一時ごろB29の大編隊も来襲。南方に爆撃の轟音聞こえはじめたるため、暫時入壕す。その後たびたび空襲警報あるいは解除となりまた発令となり、小型機の近接が報ぜられたるも、名古屋地区は大したことなく過ぎ、午後四時、空襲警報も解除となり、五時三十五分、警戒も解除せらる。五時のラジオ報道によれば、今日の空襲は極めて大規模にして、全国に来襲せる機数二千に及べりと。午後四時過ぎ教室を出で、徒歩にて帰寓す。明日菅島に向け出発のためいろいろ携え帰り、荷重くして閉口す。予に対する馬鈴薯の配給として、菅原君一貫余を持参せらる。そのうち十五六個をひとまず携え帰る。

7月25日(水)半晴無風、温度やや昇る。朝六時前すでに警戒警報出で、予期せるごとく艦載機編隊の来襲が報ぜらる。今日は午前九時半名古屋発にて菅島に向かう予定なりしが、かような訳にてこれを中止し、明夜名古屋発列車にて帰京することに変更し、午前八時家を出で、徒歩登学す。午前中空襲警報一■解除となりしも午後また空襲警報出で、全く解除となりしは夕刻四時過ぎなり。うるさき小型機の各方面よりの波状侵入にラジオは情報のやり通しなりしも、面倒ゆえ聞かず、また退避もせず。もっとも朝一度、比較近くに爆音を聞きしほか、名古屋上空には来たらざりしゆえ大いに楽なりき。午前、中埜邦夫(海軍中尉)氏〔分析化学、1920~〕来訪。四日市勤務なるが中途汽車不通にて帰れず、昨夜は教室に宿泊せる由。午後五時、若干の荷物を携え徒歩にて帰寓す。夕食後入浴。

7月26日(木)半晴。7月27日(金)半晴。今朝は家を三十分ほど遅く八時半過ぎに出で、かつ郵便局に立ち寄り、東山行の大道〔現在の山手通〕を少しく行きし時、急に爆音比較的低空に聞こゆ。もっとも家を出づる少し前警報出でしが、Bが一機の由ゆえ別に気にもせず家を出でたる訳なり。しかるに、爆音聞こゆると同時に轟然たる爆音間近に起こる。この瞬間、あるいは機銃掃射かと思い、急ぎ路傍に退避せんとし、走らんとして誤って転倒する等の醜態を演じたる後、そこの石屋の石材の蔭に瞬間身をひそむ。しかるに付近の人々立ち出で、爆弾なりという。なるほど見れば行く手よりやや左方に黒煙高く騰るを見る。さて歩き出していつもの道を行き、第一の峠にかかりしとき行き逢う人に聞けば、この途の道路側に爆弾落ち三人死せりとのこと。行き見れば、なるほど修道院より東山道の左側路傍の地に大穴あき、一民家全壊し屍体と覚しきものに蒲団を覆いあり。数人の警防団風の人しきりと立ち働き居れり。もし例刻に家を出づればあたかもこの時間にここを通りかかる予は、恐らく跡形もなく飛び散り行■不明者として取り扱わるべし。これを思いて慄然たり。まことに命は朝露の如し、ただ運命の全支配下にあって、自分には如何ともしようのなき神の摂理に任せられたるものなることをつくづく考えさせられたり。菅原君の話によれば、今日は東海道線舞坂あたりにて不通となり居れりとのことにて、中央線午後十一時半にて出発することとし、同氏も同行するとのことに、予は午後五時教室を出で、徒歩帰寓。途に今朝の穴に立ち寄り見れば、径約十間ほどもあらんか。かかる穴を幾多見れるも、かくのごとく大なるものは初めてなり。帰寓夕食後、七時家を出で、八事線にて今池乗り換え、名駅に着けるは八時半。試みに案内所にて聞けば、東海道全通せり、八時三十二分発、今出づるところなれば急ぎ行かれよという。しからば中央線はやめにして東海道にて行かんと走り、改札口を抜けプラットフォームに上れば、発車のベル鳴り居る最中なり。二等車に飛び乗れば幸いにも一席あり。ほっとして一服す。ところが中途の駅より続々来客つめ込み、駅にて喧嘩口論ありてやかましきこと限りなく、やがて身動きもならず、足の位置さえ変えられぬ込みようとなる。ためにほとんど一睡もせず。この列車は沼津より大船まで停車せずと聞き、ついに二十七日午前三時半、沼津に着きしとき下車す。満月皎々とかがやき、冷気晩秋の如し。プラットフォームのベンチにて弁当を開き、携えたるジャガイモを食し等して時を消す。五時に至り、一列車来たる。これも急行にして同様大船まで無停車とのことなりしが、結局これに乗り大船に至り、数分を待ち逆行して茅ヶ崎に着きしは七時。徒歩帰家。あまり眠きまま午前中横になりて一眠りし、昼食のとき起こさる。午後またまた四時まで眠り、ようやく元気を回復す。夕刻、南雄来たる。

7月28日(土)晴天、温度急騰、ようやく夏らしくなる。今日は海軍科学技術審議会の日なれば四時過ぎ起床、用意をなし雑炊を作り、一同六時半ごろ朝食し、七時少しく過ぎ家を出づ。幸い七時四十分山北発に間に合い上京す。大船にて警報を聞きしも空襲とならず、無事目黒技研着。会議最中に空襲警報となりしが、会議続行。正午終わり、例のごとく一同会食、散会。直ちに俵、田中、亀山三氏と恵比寿駅より水道橋に出で、学士会館に行く。午後、学振第十七特本委員会あるためなり。今日も参集者少なく、目黒より回りたる吾人四人のほかは、永井、吉川、木村、荒井の四氏参列せるのみ。第十七特縮小の案を議し、各残留分科会主査よりの報告ありて、四時過ぎ終わり、四時半会食の後散会。直ちに水道橋より東京駅に出で、五時四十分山北行が五分遅れたるためこれに間に合い、帰茅せるは七時。徒歩帰家。予の留守に紀本氏母堂来訪せられたる由にて、魚類、トマト、桃等到来す。

7月29日(日)晴天、温度高し。午前、木村夫人玄関まで来訪、煙草到来。十時ごろ家を出で、田中氏に伴なわれ運送屋日向方に行き、ついで例の牛乳屋に行きしが、久しく取りに行かざりしため今日は取り置かざりしとて一本もなし。ついで薬屋にて注射液を求めんとせしが、これも売り切れにてなし。空しく帰る。南雄、午後二時前帰り去る。午後三時、中泉氏を訪い、予および南美子の老眼鏡を貰う。これは別品として、主品を失いし場合の代品なり。中泉氏、代価を取らず。かえって桃、杏等土産に貰いて帰る。ついで旭ヶ丘に紀本氏を訪い、和男氏父君に逢う。広き庭園あるよき家なり。桃、トマト等饗せらる。五時ごろ帰家。夕刻ちょっと田中氏を訪う。今日は朝および昼前警報出でしが、このあたりは静穏なり。

7月30日(月)晴天、蒸し暑し。午前六時警報出で、間もなく空襲警報となる。艦載機来襲なりとのことを田中氏来報せらる。幸い朝食も調い居たれば急ぎこれを済ませたるころ、八時過ぎ敵機来襲。高射砲も轟きしが、急降下の音とともに機銃掃射、小爆弾爆発音しきりにして、かなり振動す。戸棚中に退避し居たるも、不安のため一度静まりたるを見すまし、向かいの中泉氏方に避難し壕に入れてもらう。それよりたびたび波状攻撃ありしも、第一回のごときことはなし。十二時過ぎ一応解除となりしため、帰家のうえジャガイモを茹でて昼食とし、一休みもせぬうちまた警報となり空襲となる。また中泉氏方に行き入壕。午後も一二度帰家したるが、結局中泉氏壕辺にて暮らす。午後五時ようやく空襲解除となる。帰家のうえ夕食を調え、食事し終わればまた警報なり。しかし今度は空襲とはならず。今日一日はついに完全に警報に明け暮れす。

7月31日(火)半晴。朝、運送屋来たり、午前十一時過ぎに五個の荷物を軽井沢に向け出す。午後一時半ごろ南美子と家を出で、昨日爆撃を蒙りたる停車場途の赤堀氏のあたりおよび少し先の松山のあたりの被害地を見る。爆弾は小型らしく、磨鉢穴は径二間くらい。砂地のため、浅くして皿の如し。付近の家の粗末なるは壁落ち、柱組と屋根だけ残れる。至近弾を蒙りたる赤堀氏は屋根瓦ことごとくいざり、屋内は相応の被害らしきも、家の形には異状なし。松山の中松は機銃掃射により径二寸くらいのもの数本、根もとより三尺くらいのあたりにて薙ぎ倒され居れり。南美子はここより戻り、予は丸通に行き書物運送の申請書を貰い、郵便局に行き国債を売らんとせしが、ここの郵便局にては要領を得ず。やめて林屋■■り石鹸箱、カラー等求め、海岸郵便局にて五百円の預金をなし、三時半ごろ帰家す。今日は学振工場廃物利用の委員会あるはずなりしも行かず。また、停車場に聞けば、東海道線は磐田以西不通とのことにて、今夜の帰名も見合わす。また、今日は終日警報なく、昨日の嵐の後の静けさ気味悪きばかりなり。ただ、夜八時半警報出でしが、中泉氏方に行き情報を聞けば、B二機、霞ヶ浦より水戸方面に来たりしとのこと。

8月1日(水)快晴、夏らしき日。午前十時前家を出で、牛乳屋に行き牛乳一壜を取り、停車場北に出で郵便局、配電所(名義変更)にて用達し、丸通に行きしに明日午前に来たれとのことなりしも、今日も掛の者不在にて要領を得ず。昼前帰家。午後は書籍発送の下調べ等に暮らす。今日終日至って静穏なりしが、夜八時半ごろ中泉氏よりラジオ情報を知らされたり。これによれば、南方海上に多数編隊機の北上あり、本土に到達するは九時半の見込みゆえ注意せよとのことなり。用意万端して待てば、九時前警報出で、九時少しく過ぎ空襲警報となる。この■月■ければ真の闇にして、出入り誠に不便なり。手探りにて外に出で、中泉氏の壕前に腰を下ろしラジオ放送を聴く。中泉氏方にても家族総出にて、いつにても入壕の出来る態勢を調えられ居たる。それより轟々たる爆音、相次いで頭上を過ぎ東行す。ラジオによれば、百余機のB29、一部は富山県より新潟県に入り、大部分は相模湾より京浜地区に入り、主として川崎、鶴見を爆弾攻撃中なりとのこと。かくして壕の入口に待機すること約三時間、おそらく最後の編隊と思わるるものの通過終われる零時過ぎ、中泉氏に礼を述べ帰り就寝す。間もなくまた中泉氏より後続部隊北上すとのこと注意せられしも、予はもはや茅ヶ崎あたりは攻撃を受けぬものと判断し床中にあり。南美子は内田方に行き、三時前空襲警報解除せりとて戻り来たる。煙草一服、また眠りに入る。

8月2日(木)晴天。昨夜寝不足のため、今朝はやや朝寝坊をなし、朝食を終わりしは九時半ごろなり。十時過ぎ家を出で、牛乳屋に行き牛乳を取り、役場にて家屋税十六円三十銭を納入。帰家せるは十一時半ごろ。夜八時半ごろ田中実氏来訪。留守居として野口研究所の人(太田氏)ほぼ承諾しくれたりとのこと。今日は終日警報なく至って長閑。

8月3日(金)快晴、温度昇る。午前十時、例のごとく牛乳を取りに行かんと支度をなしたるところ、警報出づ。情報を内田方へ聞きに行きしに、小型機編隊来襲のためらしきも、同家のラジオ波長に合わず、完全に聞き取れずとのことに、戻りて中泉氏方に立ち寄り聴けば、P51六十機、銚子より北上とのことなり。しからばこのあたりには来ることなしと判断して出掛く。しかるに駐在所あたりまで行きしころ、空襲警報となり第二波の京浜接近を報ず。これは危険と直ちに引き返し、中泉氏の壕に行く。間もなく爆音、高射砲音等聞こえ、一度急降下掃射の轟音もあり、一同入壕す。十二時ごろ静まりしため、予は帰家、昼食準備を始む。その後、一度爆音ありしも頭上を除けたり。空襲の解除となりしは一時過ぎなり。これにて完全に半日つぶれたり。午後は警報なし。朝食後、藤井別荘の相田方に行き、茄子三十個、カボチャ一個を譲ってもらう。四円なり。二円余分に払う。

8月4日(土)快晴、暑気。午前十時前家を出で、牛乳屋に行き牛乳を取り、駅にて聞けば、なお東海道は磐田豊橋間不通、開通見込不明、中央線は八王子与瀬間不通とのことにて帰名できず、なお滞茅を余儀なくせらる。滞茅長引くため朝と夕は雑炊とし、野菜を主食とす。正午少しく前警報出でしも、おそらくB一機らしく、このあたりは静穏なりき。昨夜は安眠。

8月5日(日)快晴。昨日、警視庁外事課より葉書到着。今日午前十時までに出頭せよとのことなり。同課は目下、東横線自由が丘駅付近緑が丘国民学校に疎開中とのことにて、午前八時家を出で茅ヶ崎駅に行く。途中、駐在所まで来たりし時すでに警報出づ。駐在所にて情報を聞けば、B一機伊豆半島に沿い北上中とのことゆえ、大したこともなからんと出掛く。駅に至れば少しく待ちて、八時半上り列車来たる。これにて品川乗り換え、指示通り渋谷乗り換え、東横線自由が丘下車、数町を行き緑が丘国民学校に着したるは十時半。直ちに外事課の室に入る。ここにて課長に会う。要するに軽井沢別荘の件にして、万事は軽井沢警察と直接交渉しくれ、そのための往復切符購入の証明書を発行するとのことにて、二人分の往復券に対する書き付けをくれたり。用事はこれだけとのことにて、この室の一机上にて弁当を食べさせてもらい、十一時半ここを辞し、出づればまた警報出でたり。自由が丘駅にて空襲となる。小型機の数目標来襲とのことなり。横浜に出でてすぐに帰茅せんか、いっそ東京に行きてP51の脱去を待たんかと迷いしが、後者を撰びてちょうど来たれる電車にて渋谷に出で、山手線に乗り換え下落合の兄上の寓に行くこととす。しかるに、新宿駅に来たりしとき乗客は皆下車を強いられ、駅外に追い出さる。仕方なく出口より広場に出づ。炎天にて暑気に堪え難し。ぼつぼつ歩き始めしが結局大久保の焼跡を見舞うこととし、この方向に向かいしが一向駅上に敵機の影なく、焼跡に着きしまで何のこともなし。焼跡にしゃがみ込みステッキにて掘り掘りするうち、陶器皿の完全なるもの五枚、大花瓶(辰砂)一個全く満足のものを掘り出す。後者はかつて三宅市郎氏〔農学、1881~1964〕贈るところのものにて、相当の大きさなるが無疵のまま存在せるは奇蹟と言うも愚かなり。まだ何か出そうなれども、これだけにても持ち帰り相当困難ゆえ、この辺にて掘り出しをやめ、これらの品を携え大工金子を訪い、縄にても貰わんとせしに、金子は留守なりしも家内在宅。新聞紙と紐とをくれ、なお古切れの袋をも貸しくれたり。これに掘り出しのものを入れ、持ち帰る。なお、金子方にて■町会長黒川氏より、増冨氏に貸したる地所にバラックを建てさせてくれとのことなり。もちろん承諾はするが、当方として使用の際はいつでも返付すべしとの念書を交換することとして別る。新大久保駅より品川に出で帰らんとし、品川駅にて聞けば、今日の空襲にて国府津小田原間線路故障を生じ不通となり、列車はすべて平塚あるいは大磯止まりなりと言う。やがて三時、平塚行列車来たり、これに乗る。しかるに藤沢に着せる時この列車はこれ以西行かずとて、乗客は皆下車せしめらる。致し方なく下車、次の列車を待つ。四時二十三分発のもの来たりしが、非常の雑踏にて窓より乗車する者大多数という有様ゆえ、断念して次の列車を待つ。これは比較的すき居り、五時発車す。かくしてようやく帰茅し得たり。茅ヶ崎駅にて田中氏に逢い、ともに帰る。氏は今夜出発、寺田村に行くとのこと。夜九時ごろ警報。中泉氏よりB多数北上との情報を知らせられ、用意するうち空襲となりしゆえ、同氏方の壕前に行き待機す。今夜はほとんどみな銚子、鹿島灘あたりより茨城、群馬地区に入り、前橋、高崎、渋川等を焼夷攻撃せる模様にして、吾人の頭上には来たらず。十一時半ごろ、中泉氏に礼を述べて辞去、帰家す。十二時二十分ごろ空襲解除となり、就寝せるは一時に近し。

8月6日(月)快晴、暑気。中央線は開通せる由なるも、一度南雄と打ち合わせをなす必要あるため、なお帰名を延期す。今朝七時過ぎ警報出で、中泉氏よりの報告によれば八丈島を北上する小型機編隊あれば注意せよとのことにて、急ぎ朝食を済ませ支度をなすうち、八時半ごろ空襲警報となる。例のごとく中泉氏の壕の厄介となる。やがて爆音聞こえ、急降下音、機銃音入り交じり盛んに起こる。近所を攻撃せる如し。今日は中泉氏が新設せられたる立派な広き壕に入りたるため、楽にして安全感大なり。この音やみたるころ出で見れば、北方に黒煙騰り火災起これり。中泉氏留守番の鈴木、松の樹に上りて展望し、寒川あたりなりと言う。この黒煙は一時間余も続けり。おそらく工場の火事なるべし。十時半ごろ空襲解除となり、辞去す。夕刻、突然南雄夫婦来着。夕食の支度を終わりたる時ゆえ、われら二人の夕食と分け合い、賑やかに夕食を済ます。午後は幸い敵襲もなく静穏なり。

8月7日(火)快晴、暑気。今日午後四時三十五分新宿発の中央線にて帰名せんと支度をなし弁当を作り、正午ごろの茅ヶ崎発にて上京せん心組なりしに、午前十時過ぎ中泉氏よりP編隊北上の報あり。やがて警報出で、かつ間もなく空襲警報となり、同氏より再度呼びに来たる。やむなく万事放擲、一同同氏方の壕に集まる。やがて爆音聞こえ、相模湾回旋との報等ありて待機せしが、幸い今日は茅ヶ崎上空には来たらず。解除となれるは正午少しく前なり。一同帰宅、せっかく作りたる弁当を昼食に代え、予の上京もやめとなす。今日は午後二時より隣組にて駐屯兵に茶の接待ある由にて、大薬缶に茶を入れ敏子持参せしに、これは取りやめとなれる由にて戻り来たる。午後三時過ぎより風呂を焚き、予は夕食前入浴、日ごろの汗を流す。清々しきこと言うべからず。午後は警報もなく静穏なり。夕食は玉蜀黍のスマッシュを基調とせる野菜のみの代用食にて、一同楽しく晩餐を済ます。牛乳屋、二合入り四本を置き行きくれたるため牛乳も豊富にして、日ごろの憂鬱を吹き飛ばす。

8月8日(水)快晴、風あり涼し。南雄は逗子鈴木氏へ保険相談のため、敏子は私用にて東京へ、それぞれ午前九時ごろ家を出でて出発。予は中央線もしくは東海道線にて帰名せんと停車場に列車運転情況等を聞きかたがたその他の用達しのため、十時ごろ家を出で、まず牛乳屋にて牛乳を取り、林屋にて水引を買い、丸通にて南雄書籍発送の申請書を出し、ついで停車場にて聞けば、東海道は昨日の爆撃にてまた豊橋三河三谷間不通となれる由にて失望す。帰家すれば、留守番として頼み置きたる野口研の太田正雄氏来たり待てり。面談して、同氏明日より来泊すること等取り決め、同氏は十二時半辞去す。そろそろ帰名の支度等なし、今夜豊橋までにても行かんかと考え居るうち、午後三時半警報出で、中泉氏よりの報告によればまた多数機南方海上より北上とのことにて、間もなく空襲警報となる。とりあえず中泉氏の壕前に行きラジオを聞けば、初めは戦爆連合の来襲とのことなりしが、結局B29六十機、静岡地区および房総半島より侵入して京浜西北方および西南方地区を襲撃せるものにして、爆弾の破裂音遠雷のごとく聞こゆ。しかし相模湾方面には姿を見せず。情況判断にて四時半ごろ予は帰家し、夕食の準備を始む。五時ごろ空襲解除となる。この時間に空襲は近ごろ珍しきことなり。外出せる南雄夫婦、日没後もなかなか帰宅せず、八時前ようやく両人揃って帰り来たる。南雄は逗子鈴木氏よりいろいろ食料や靴下、襯衣等の贈り物を獲来たる。一同遅き夕食を済ませたるは九時過ぎ。就寝十一時ごろとなる。ところがまさに就寝せんとする時また警報出でしが、これは空襲とならず、そのまま床に入る。こんな次第にて、帰名また延期の余儀なきに至る。

8月9日(木)快晴、暑気。午前十時ごろ家を出で、牛乳屋にて牛乳を取り、駅に立ち寄り聞けば東海道線も中央線も開通とのことにて、今夜十一時二十二分発茅ヶ崎発にて帰名と予定し帰家す。一同在宅、半ば休養、半ば荷造りにて暮らす。ところが夕刻、留守居の太田夫妻および弟の三人乗り込み、急にごった返す。今夜はこの狭き家に七人も寝泊りす。しかし幸い終日警報もなく静穏なるため、この騒ぎも灯火下にてなし得たり。しかるに夕刻、中泉氏より齎されたる情報によれば、今暁一時より蘇連と戦争状態に入り、蘇満国境にてはすでに砲火を交えつつありとのことにて、あまりの突然のことに皆々呆然たり。夜九時のニュースを南雄とともに同氏宅へ聞きに行く。要するに、米英支三国との調停を蘇連に頼みながら無条件降伏を本邦が拒否せるため、蘇連として戦争を急速に終結せしめんがため日本に宣戦するとのことにて、無法極まる売り喧嘩なり。一方、本邦はただ受身にて、一向に政府としての宣言も志気昂揚の声明もなく、甚だ奇怪なる態度なり。

8月10日(金)無風、蒸し暑し。今日は南美子、敏子とともにとにかく秩父に行くこととし、身のまわり品だけを携え出発とし、早朝起床。弁当作り等の準備を終われる午前七時過ぎ警報出で、艦載機の東北地方、群馬、茨城地区襲撃、B29百機、P51五十機の京浜地方侵入等報ぜられ、また半日つぶれる。正午ごろ解除となり、この暇にと決心して南美子、敏子出発。南雄、東京まで見送る。その後、警報三度出でしも、皆B一機ずつらし。正午ごろ、兵隊水を呑みに台所口に来たる。一人、「あっ柴田先生」と言う。驚き熟視すれば和田三造氏〔洋画家、1883~1967〕方にありし関■光氏なり。これはこれはと呆れて聞けば、この四月応召して入隊せりとのことにして、今日は裏の松を切りに九人の同僚とともに来たれりと。縁先にて野菜汁等ふるまい、暫時雑談す。午後、同氏等に無心し、松の枝たくさん貰い、燃料すこぶる豊富となる。夕刻六時過ぎ南雄帰り来たり、二人が無事東上線にて出発せることを知る。予は十四日の審議会まで滞留することとす。蘇連との戦争は何ら新報なし。煮え切らぬこと多し。就寝してより警報ありしが起き出でず。

8月11日(土)晴天、大暑。午前、太田氏転入の手続を済ます。午後、南雄、南美子の転出の手続をなさんとせしが、転出転入あまり接近せりとて、明後日まで延期となる。午前十時家を出で、牛乳屋にて牛乳を取り来たる。食事、昨昼、野菜汁。昨夕、米七勺、野菜入り大豆磨り入り雑炊。今朝、米一合、野菜磨りジャガ入り雑炊。昼、ジャガ茹で、紅茶。晩、磨り玉蜀黍の汁、野菜入り。野菜買い入れ、路傍にて農夫より、トマト二個および胡瓜十本、三円。相田方より茄子二百目(二円)。配給、米、焼酎。警報、午前二度あり、B一機ずつらし。午後なし。午後の牛乳屋、昨日も今日も来たらず。兵隊に茶を二度給す。午後、風呂を立て、夕食前入浴。

8月12日(日)快晴、大暑。午前、牛乳屋へ牛乳を取りに行くこと例の如し。また、林屋にまわり塩の配給を取らんとせしに、月末ならでは現品なしとのことにて空しく帰る。南雄、午後逗子鈴木氏を訪い、火災保険を茅ヶ崎および軽井沢の家につけることを頼みに行き、七時過ぎ帰茅。太田氏夫妻は横浜に荷物を取りに行く。食事、朝、飯(二合)、野菜汁。昼、ジャガ芋、紅茶。晩、キナコ、野菜汁、ジャガ芋、野菜。牛乳屋への往途、路傍にてカボチャ一個、トマト一個入手、二円八十九銭。午後の牛乳来たらず。空襲、昼も夜もなく、至って静穏。

8月13日(月)晴天、大暑、薄雲あり。午後五時半警報出で、艦載機来寇が報ぜらる。初めは主として銚子方面および房総よりの侵入にて、相模湾方面に来たらず。午前九時半ごろ一度解除となりしが、その後また侵入。殊に午後二時ごろより二度も吾人の頭上近く急降下し掃射空中戦等を演ず。そのとき運悪く家に居て、恐ろしき轟音のうちに観念しつつ時の過ぐるを待つ。その他は午後五時半ごろ空襲解除となるまで大抵中泉氏方にて暮らす。食事、朝、雑炊(米一合)。昼、ジャガ芋、カボチャの油■■、茄子丸焼、紅茶。晩、燻し大豆、野菜汁。東海道線、また大船以東および辻堂あたりにて不通。太田氏、横浜に行かんとして行けず、終日その間を往復し結局帰茅。南雄、午前、南美子の転出手続を済ます。荷物の発送は不可能とのこと。

8月14日(火)晴天。今日は海軍科学技術審議会の集会日なれば、早起きし支度を整え午前七時二十分ごろ家を出で、駅に行けばすでに一列車出発し去るところなり。しかし約五分も待ちしころ一列車来たり、これに乗し、品川乗り換え、恵比寿駅下車、目黒技研に着せしは定刻九時半なり。今日は議題も少なく十時半ごろ議了し、後は雑談に移り、内に今度の米の新型爆弾の威力について海軍側の話を聞き得たり。これが投下せられたるは広島および長崎にして、ことに広島はただの一発に全市ほとんど壊滅し、即死六万、死傷あわせて十数万という恐るべき数字を示し、約六キロ半径内にては家屋完全なるものなしとのこと。この驚異的なるエネルギーの本源はウランの核分裂らしく、これにはウラン二三五なる同位体元素に中性子を衝撃せしむるものらしく、恐るべき熱輻射線、瞬時にものみなを焼き尽くすものらし。なお現象として興味あるは、太陽の視半径の数倍なる爆発中心を囲みて黄色の暈あり。またこの周囲に入道雲を生じ、後に大驟雨来たれりとの点等なり。正午会食の後、散会。予は直ちに恵比寿駅より乗車、品川下車、十三時八分米原行に間に合いて帰茅す。南雄、午後より東京に行きしが夕刻帰り来たる。今日は午前に三回警報出でたるが、皆B一機ずつにして、午後は警報なし。夜、中泉氏来訪、曰く今夕は七時および九時の報道以外放送なく、何となく異様なる雰囲気を感ず。東京に別段のことなきやとのことなり。もっとも二三日前より戦争終結に関する流言■■■■の論調もこれを裏書きするごとく、吾人も第六感的これを感知し居たるが、なお放送中に明日正午重大発表ありとのことなりし由。予は今夜十一時二十二分茅ヶ崎発大阪行にて帰名することとし、支度をなし入浴夕食後、十時家を出で、駅に至れば警報出で、駅は闇黒となる。駅長に聞けば、この列車は非常に混雑し、おそらく到底乗車し得ざるべしとのこと。これに加うるに、海軍士官約百名ほど荷物を携え、下りにて移動するためこの駅に集まり、いよいよ乗車の困難を予想せしめしが、約二十分遅れて来たれる列車はなるほど立錐の余地なき混みようにて、乗車口の扉はみな内より人により閉ざされ、乗車全く不可能なり。ついに断念して帰宅することとし、また深夜の途を荷を背負い■しと帰る。帰宅せしは十二時半ごろなり。雨戸を叩きて寝入れる南雄を覚まし、家に入り寝ぬ。このとき空襲警報あり。後にて聞けば今夜も相当の編隊、秋田、山形地区を攻撃し、また小田原にも来たれりとのことなり。食事、朝、野菜雑炊(米一合五勺)。昼、技研。パン、牛肉カツレツ、キャベツ付け合わせ、カボチャ、トーガン、味噌汁。夕、カボチャ、茄子、玉葱等の油揚げ、紅茶。今日は午後の牛乳屋、二本置き行く。

8月15日(水)快晴、南風涼し。朝食のころ警報出で、小型機B機等相当の編隊にて侵入。空中戦の響き切に聞こえ出す。やむなくまた中泉氏の壕に避難す。八時ごろ空襲解除。ラジオはこの間、今日正午詔勅渙発、聖上御親しく御放送との歴史的画期的事実を報ず。じつは今朝横浜に行き、東京八時半発の急行にて帰名せんと考え居りしが、この企てを捨て、正午の放送拝聴の上にて進退を決することとす。正午数分前また中泉氏を訪い、一同謹慎して御詔語御親読を拝承す。君が代の後、玉音耳を打つ。要するに時局収拾のため敵方の申し出を受諾し、ただ国体の尊厳を保持し得給えること、軍隊は武装を解除せらるること、皇国は朝鮮、樺太、台湾を失うこと等を知る。これはいわゆるポツダム宣言にして、これを全面的に受諾せるものなり。吾人怒憤痛恨の極みなれども、聖慮畏くも人民の苦難これ以上に及ぶことに宸襟を悩まし給いこの措置に出で給いしとのこと、誠に恐懼の至りというのほかなく、その責は国民一個一個の負わざるべからざるところというべし。日本国民よ再出発せよ。食事、朝、昨夜のジャガその他野菜の油煮等。昼もほぼ同様。晩、豆粉、うどん粉、ジャガスマッシュをこねて焼く。午前午後とも牛乳二合ずつ。

8月16日(木)快晴、大暑。いよいよ今朝八時半東京発急行を大船もしくは横浜にて捕らえ帰名のこととし、早朝起床、朝食および弁当の用意をなし、後をよく太田氏細君に頼み、家を出でたるは午前七時半。駅に行きて聞けば八時半急行は目下運休中にて、茅ヶ崎発八時四十五分大阪行のものあり。ただし枇杷島以西に故障ありて、列車は名古屋折り返し中なりとのこと。これを待ち、時間通り来たれる列車に入る。一杯の人、ことに海軍士官および下士官の転任者多く、やむなく通路にリュックザックを置きこの上に腰を下ろす。次第に暑気を増し、ことに低き姿勢にては風に当たらず、ゆだるばかりの大暑なり。流汗淋漓、うつらうつら坐睡しつつ行く。沼津および静岡の停車時間長く、ために約一時間を遅れ、名古屋に着けるは五時四十分なり。この間、静岡あたりにて一度警戒警報出づ。おそらくわが国内情勢を偵察に来たれるものなるべし。駅前より電車にて帰家せるは七時過ぎ。総長も予が帰名あまりにおくれたるため、今日電報を茅ヶ崎に打ちたりとのこと。炊事の婆さんさっそく代用食を調えくれ、また幸い風呂立ち居り一浴して汗を流し、蘇生の思いをなす。総長と食後の雑談に時を移し、十時就寝。内閣総辞職をなし東久邇宮殿下、内閣首班として組閣の大命を拝せられ組閣進行中とのラジオ放送あり。誠に画期的のことなり。国内的方法としてはこのほかなからん。

8月17日(金)快晴、大暑。午後、風出でやや凌ぎよくなる。朝、■■部屋の取片付けをなし等したるため、やや遅く家を出で、郵便局に立ち寄り速達三通を出し、徒歩にて登学す。佐野■氏〔化学〕一人出勤。昼ごろ高嶺氏来室。一緒に弁当を取る。多数の来状を閲し、返事を若干認め、帰途投函。帰途は電車とす。夕刻、夕食前入浴。食事、朝、カボチャ煮付、トマト、味噌汁(不断草)。夕、芋粉団子のすまし汁、ジャガ芋玉葱サラダ、漬物、ササゲ煮付(代用)。

8月18日(土)快晴、大暑。今日は登学帰途とも電車。今日は山崎教授登学。なお午後、松本の能代〔清〕教授〔数学、1906~1976。松本高等学校に疎開〕、岐阜の小野〔勝次〕教授〔数学、1909~2001。岐阜県揖斐郡宮地村弓削寺に疎開〕、うち揃い来学。朝、八事郵便局にて五百円預け入れ。夜、隣家の谷野氏に招かれ、いろいろ御馳走になる。食事、朝、小豆飯、茄子、不断草味噌汁、林檎。晩、卵入りうどん、カボチャ煮付、トマト、豆つぶしの饅頭(代用)。事務の戸田氏より鶏卵十個入手(二十五円払う)。夕食前入浴。

8月19日(日)朝薄曇り、のち快晴極暑。夜、電光遠雷。朝、徒歩登学。午後、上田より八木大学院学生帰学。帰途電車。食事、朝、不断菜入り味噌汁、煮豆、漬物。夕、馬鈴薯煮付、鮭缶詰、芋粉及シンコ団子、漬物、飯一椀、葡萄。夕食前入浴。

8月20日(月)朝曇り、のち快晴大暑。午前九時半より航研にて東海学校集団集会ありとのことにて、九時前、総長とともに家を出で、電車にて今池下車、あとは徒歩にて航研に行く。各専門学校長もしくはその代理者参集、新事態に対する学校の態度に関して意見の交換あり。正午ごろ、予は中座して帰途につく。東山終点にて四日市の中埜邦夫中尉に逢い、ともに登学。菅原氏、帰学し居らる。それより予は弁当の用意をなし、馬鈴薯を食いつつ菅原、中埜両氏と雑談す。中埜中尉は、四日市の研究資材を名大に譲与したしとのことの用務を帯びて来たり。当方よりこれを受け取るトラックを出すことについて、佐野教授に一切を任すこととす。食後、中埜氏辞去。菅原君は今夕より吾人の住居にて食事ならびに宿泊をなさるる筈ゆえ、五時過ぎ教室を出で徒歩にて帰寓、直ちに入浴。食事、朝、小豆粥、むきえんどう煮付、不断菜味噌汁。夕(代用)、漬物、茄子、芋粉団子の汁、カボチャ小豆煮付、ササゲ煮付、トマト、漬物。

8月21日(火)菅原君と八時半、家を出で徒歩登学。九時より総長室にて評議会あり。新時局に関する懇談を主とし、正午散会。午後、巡視を伴ない動物飼育室に行き、預けありたる荷物三個を出し、教室に持ち込み虫干しをなす。殊に画幅等、湿潤せるをもって掛けて干す。午後五時、菅原君とともに電車にて帰る。夕食後入浴。食事、朝、茄子味噌汁、カボチャ煮付、トマト、漬物。晩、うどん、芋粉汁、じゃが芋玉葱付け合わせ、唐辛子、漬物、小豆飯(一杯)。今夜は上田氏は夕食せず。

8月22日(水)快晴無風、極暑夕凪。朝、総長および菅原氏と電車にて山中町下車、徒歩登学。午前、山崎、江上〔不二夫、生化学、1910~1982〕、森野氏等参集。疎開帰還の適否につき意見交換。午後一時半より教授会。人事として関戸氏(物理)推薦可決。次いで主として疎開処置問題を議し、各教授の意見聴取。大体において静観論なりき。かくて三時半散会。今夜帰京の心算として直ちに弁当の用意にかかり馬鈴薯をゆでて、五時教室を出で徒歩帰宅。夕食を早くし七時十五分ごろ家を出で駅に至る。八時三十二分名古屋発に乗らんとせしに、帰還兵黒山のごとくみな殺気立ち、到底乗車できず。東京よりはなお激しからんことを思い、思い切りて帰京をやめることとし、電車にて戻り九時半帰家す。上田君はすでに出発し、菅原氏なおあり。食事、朝、切干大根の味噌汁、煮豆、漬物。夕、カボチャ茄子の煮付、茶碗蒸卵とじ、焼肴(上田氏持参)、唐辛子、漬物。

8月23日(木)雨、遠雷あり。久々の慈雨にて、乾燥し切り枯死に瀕せし畑、大いに助かる。朝、菅原君と電車にて登学。同君は昼食後、森野君とともに松本に向かって去る。帰途も電車利用。今日は総長休養。食事、朝、大根切干味噌汁、漬物。晩(代用)、芋粉団子、カボチャ汁、カボチャ煮付、胡瓜豆粉付け合わせ、漬物。

8月24日(金)雨、時々晴れ間あり。登学電車、途に山崎教授および四日市より来たれる三川大尉に逢う。四日市より機械器具譲渡につきて三川氏より申し出あり。適当の方法にて受納することとす。晴れ間を見て教室にありし荷物を八事に運ぶこととし、小使野田にリヤカーを引かしめ、上り坂を後押しして運搬す。すなわち教室を午後四時四十分出発、修道院道を採り、四十五分ほどにて帰着。到着少し前より雨降り出でしが、幸い濡るるに至らず。間もなく大降りとなり危うく免る。帰宅後、直ちに入浴。食事、朝、パン、カボチャ味噌汁、漬物。夕、大豆入り粥、トーガン汁、菜と鮭缶付け合わせ、漬物(昼、弁当、パンと馬鈴薯)。事務の戸田より鶏卵三個(五円)および絹張傘(百二十円)入手。巡視より小カボチャ二個入手(おしめり祝いの由)。

8月25日(土)時々驟雨あり、天候の不穏化を思わしめしが、夜九時の報道後、台風彙報出で、本夜半、四国と志摩半島との中間にかなりの勢力の台風上陸し、京畿地方は暴風となり、東海関東も相当の影響を蒙るとのことなり。朝徒歩、帰途電車。今日は東山停電、したがって水もなく大いに不便なり。食事、朝、パン、カボチャ味噌汁、煮豆、漬物。弁当、ゆでカボチャ、乾麺麭、半熟卵、紅茶。晩、冬瓜すまし汁、カボチャ茄子煮付、煮豆、沢庵、芋米飯。昨日よりいよいよ本土に進駐を開始する筈なりし米英軍は、天候のため■■を四十八時間延期せし由。そろそろ神風が吹きはじめたるか。

8月26日(日)西南風強、大体晴天なりしが、午後三時過ぎより大驟雨しばしば来たる。涼し。朝、電車にて安田車庫に至り下車。一町ほど戻りて、昨日来眼をつけ置きし理髪店に行く。二人ほど待ちて久々にて散髪す。この店、外観はさほどにてもなきが、入りて見れば一人の老爺が仕事をなし、そのむさくるしきこと言語道断。タオルや首巻布のごときただ一枚にて、消毒はおろか洗濯もいつしたものかわからず、鼠色にて臭く全く閉口す。また剃刀は日本式のものにて、一々砥石で砥ぐ等、到底現代の理髪にはあらず。それでも久しぶりで延び切った髪を思い切り短く刈らしめたる心地は悪からず。さて、東山教室に行き、直ちに顔や頭髪を洗うつもりのところ、昨日来の停電なお引き続きて水なし。やむなく弁当作りも一昨日の水を用い、熱用には下の教室の瓦斯を用いて始めたるが、正午少し前にようやく通電す。しかし水は午後一時ごろに至ってようやく来る。午前中山崎氏ありしが午後帰り去り、事務の者も帰り、午後は予一人となる。三時ごろに至り、にわかに雲出で天気怪しくなりたれば帰り支度を始め、三時半教室を出で東山終点に至る。電車なかなか来たらず、ところへついに催し居たる大驟雨来たり、煙草屋の店に遁げ込む。三十分ほど待ちたるころようやく電車来たり、驟雨中これに乗り込む。今池にて乗り換えのとき、またまた滝のごとき大驟雨に襲われ濡れねずみとなる。かくして八事に下車せるときは幸い雨やみ、夕日あたる。帰家せるは五時十五分。食事、朝、大根切干味噌汁、飯、漬物、煮豆。晩、小豆飯一椀、芋粉饅頭五個(代用)、カボチャ小豆煮付、ツマミ菜切干の味噌汁、塩鮭キウリ付け合わせ、漬物。弁当、ゆでカボチャ、乾麺麭、半熟卵一個、紅茶。三時、コーヒー、乾麺麭。一昨日来、煙草切れ閉口、次の配給はいつのことやらわからず。夜九時の報道後の天気予報によれば、またまた新たなる台風北上し、四国および志摩半島に上陸せんとしつつありとのこと。

8月27日(月)晴天、風強し。夕刻、涼気著し。朝、徒歩登学。途に焼夷弾のバンドを拾い集め、家のかまどのさなを作る。炊事の老婆いろいろ愚痴をこぼすうち、このさなも一つゆえ、一つずつ愚痴を封じんがためなり。午後一時半より総長室にて部長会議あり。文部省よりの口頭指示事項に関して協議し、五時散会。主として外国軍上陸進駐に関し、吾人の取るべき種々の問題なり。食事、朝、干大根茄子味噌汁、焼茄子、海苔、漬物、飯。晩、トーガンすまし汁、玉葱鮭缶、漬物、飯。弁当、じゃが芋、半熟卵、紅茶。

8月28日(火)晴曇不定、風弱く蒸暑し。夕刻、小驟雨あり。朝、徒歩登学。帰途は電車にしたるところ池下にて大停電となり、四十五分を待ちたるも動かず。ついに徒歩今池に向かわんとせしに、仲田に来たりしとき電流来たり、また電車に乗り、帰家せしは六時。戸田氏より鶏卵十八個入手(三十一円)。食事、朝、干大根味噌汁、焼茄子、パン、漬物。晩、豆腐飯、トーガン汁、塩鮭、唐辛子。弁当、パン、じゃが芋、半熟卵、紅茶。三時、コーヒー。夜、菅原氏到着。南雄よりの葉書によれば、南美子はすでに茅ヶ崎に帰り、軽井沢へは行かず。南雄夫婦、軽井沢に行きて善後策を議するとのこと。

8月29日(水)快晴、暑気戻り来たる。午前九時より総長室にて評議会あり。今日は総長および菅原君とともに電車にて登学。評議会には珍しく全評議員出席。主として文部省よりの口頭指示事項につき協議。正午散会。午後は部長室にて理学部各教室主任会議を開き、富士見よりの有山〔兼孝〕氏〔物理学、1904~1992。長野県諏訪郡富士見国民学校に疎開〕、松本よりの能代氏、菅原氏〔松本高等学校に疎開〕、在名の高嶺氏等参集。午前の評議会の結果を話し、主として秘密事項、国体護持問題徹底等を特に注意するよう要請し、午前手に入れたる西瓜等振る舞い、四時過ぎ散会す。帰途は菅原君とともに徒歩帰宅。事務の戸田氏より西瓜およびカボチャ入手(四円)。食事、朝、不断菜味噌汁、煮豆、海苔、飯、漬物。晩、カボチャ煮付、不断菜トーガン味噌汁、身がき鯡煮付、漬物、飯(豆腐)。弁当、カボチャ味噌汁、半熟卵二個、コーヒー。今日、防空手当、科学研究手当等出る(総長に五十円五十銭、菅原氏に七十八円五十銭返却)。

8月30日(木)晴天、暑気。夜に入り驟雨あり。菅原君とともに八時半家を出で、電車にて逆行し、予は栄町下車、菅原君は切符を買うため名駅に行かる。予は久々にて街に出でたるため、丸栄に入りて見たるに、焼け陶器の安売りあり。紅茶茶碗十五銭ずつのもの三個、皿二十銭ずつのもの三個を一円にて求む。それより南桑名町の帝国銀行に入り、上海よりの為替を取らんとせしに、上海の振り出し銀行、今は外国銀行となりたるため、現金に換え難しという。致し方なくこれは他日を期し、手持ちの千五百円を預金して通帳を作らしむ。これを済ませ南桑名町より東山行に乗りしに、菅原君に逢う。同君も東京行の切符獲得できたる由。ともに登学。間もなく四日市の三川大尉来訪。四日市より教室に引き渡すべき多数の機械器具薬品のリスト持参。これを引き取る手筈を打ち合わす。夕刻帰家は菅原君とともに徒歩とす。同君、午後九時ごろ辞去、東京に向かって去らる。食事、朝、トーガン不断菜味噌汁、煮豆、飯、漬物(昨夜の西瓜の皮)。晩、大豆つぶし饅頭三個(代用)、大豆入り飯一椀、不断菜■くづ汁、じゃが芋、鮭缶、たくあん、唐辛子。弁当、ゆで卵二個、カボチャ味噌煮、紅茶。三時、半熟卵一個。

8月31日(金)終日豪雨、冷気。朝、電車。八事線は無事なりしも東山線停電にて、池下にて二十分余豪雨中を待ち、ようやく動き出す。帰途も電車を利用せしに、八事線ときに止まり大いに時間かかる。夕食中に上田氏到着。夜、宿泊。食事、朝、身がき鯡の味噌煮、昆布味噌汁、飯、漬物。晩、小豆飯、トーガン汁、沢庵、梅干、煮豆鯡付け合わせ。弁当、カボチャ味噌汁、半熟卵二個、紅茶。

9月1日(土)曇天、小雨しばしば来たる。今日は往復とも電車。しかも両度とも停電に逢う。上田氏なお滞在。夕食後入浴。食事、朝、トーガン味噌汁、海苔、沢庵、梅干。晩、カボチャ煮付、焼茄子、煮豆、飯、沢庵、配給の葡萄酒。弁当、カボチャ、鶏卵二個、紅茶。三時、半熟卵一個、カボチャ塩焼二片、紅茶。

9月2日(日)雨。今日の日曜より諸官庁は休暇を取り得ることとなる。しかし予は例のごとく登学。電車にて行かんと八事終点に出でしに、停電と見えて、乗客雲集すれども電車顔も見せず。やがて来たれるトラック、殊勝にも停車して希望者は今池まで連れ行かんという。たちまち多数の男女争い乗りて、満員となる。次に来たれるトラックを、列中にありし三人の外人合図して停め、乗り込む。予もこれに便乗して今池まで行く。運転手に心ばかりの礼せんとせしに、受け取らず。やむなく礼を述べて下車。総長に頼まれたる速達を郵便局に托し、さて今池の停車場に待てども、またまた電車なかなか来たらず。仲田まで歩き、ここにてバラック営業をなし居る薬やにて瀬戸物キセル三本■■品とを求め、なお二十分ほど待ち、ようやく来たれる東山行にて教室に着きたるはあたかも正午なり。山崎氏、東京より帰り来たり居り。いろいろ報告を聴く。夕刻帰宅の際の電車は珍しく円滑に動く。朝食のとき玄関に訪客あり。出でて見れば、東京にての隣人たりし益富政助氏なり。全く思いもかけぬ人の訪れに驚き、久闊を叙し来意を聞けば、氏は大久保の戦災地をなお引き続き借り受け小家屋を建築したしとのこと。しかし先に黒川氏に後をしばらく譲るとの口約を与えたるところへこの急変にて、小家屋なれば建設可能となりたれば何とか黒川氏解約の方法なきかとのことなり。予は黒川氏と先日交換せる念書を示し、方法はなきにあらぬも、当方としてもいろいろ計画を有し、いまだ決定しかね居るところゆえ、返答は月半ばごろまで待たれたしといい、再会を約して分かる。氏は目下、賀川豊彦氏の家に間居しつつありとのこと。食事、朝、カボチャ煮付、飯、焼茄子、カボチャ味噌汁、沢庵。晩、大豆饅頭とカボチャ葉胡麻あえ付け合わせ、茄子煮付椀盛、沢庵、大豆入り飯。弁当、ゆでカボチャ、卵二個、紅茶。上田氏、朝食後辞去、豊川を経て切原に帰るとのこと。

9月3日(月)曇天、午後しばしば小雨。朝冷気、後やや温度昇る。朝、電車にて登学。ところが今池乗り換えの電車来たらず。閉口し居るところを生源寺氏、小型自動車にて通りかかる。直ちに呼び止め、便乗して登学することを得たり。帰途は徒歩とす。文部省より電報にて、学研支部研究ひとまず中止の由いい来たる。食事、朝、カボチャの葉の味噌汁、煮豆、沢庵、トマト。晩、カボチャ煮付、焼茄子玉葱付け合わせ、味噌味付、大豆入り粥、瓜漬物。弁当、今日は飯と沢庵、梅干、味噌を携え行きしが、戸田氏より小カボチャ入手のため、これと味噌にて味噌汁を作り、なお半熟卵一個にて、やや昼飯らしき昼飯を食う。帝国学士院より乗車券来着。乗車期間は九月四日より十二月三日となり居るをもって、明夜ひとまず帰京せんとす。なお南雄十九日出の葉書来たり、汽車不通のため南美子帰茅できざりし由いい来たる。同時に菅原氏および徳永〔元子。徳永重康(動物学、1874~1940)夫人、著者の妹〕より葉書来たる。

9月4日(火)曇天。朝、徒歩登学。今夜帰京のため準備す。また家にての準備のため午後三時半教室を出で、電車にて帰家。午後五時半ごろ食事。今夜は総長、他より招待せられたるため、夕食は予一人なり。かくして支度をなし、六時半ごろ家を出で、名駅に至り午後八時三十二分名古屋発にて東上す。今夜は乗車の際はさほど込み合わず。しかし途中より続々乗客つめかけ、やがて朝、満員となる。今日、大学にて理学部罹災世帯主に対し、若干の台所道具の配給あり。十人の罹災世帯主に対し、各々小鍋一個ずつのほか、御飯蒸し一個は抽籤としたるに、予、籤に当たる。食事、朝、芋の葉および茎の味噌汁、カボチャ煮付、漬物。晩、玉葱鮭缶付け合わせ、煮茄子、唐辛子、佃煮、漬物。

9月5日(水)快晴。この汽車は沼津より大船まで無停車のため、大船まで来たり下車時に四時半、下りは六時二十五分とのことにて、プラットフォームのベンチにて弁当を食べ、二時間を待ちて大阪行に乗り、茅ヶ崎に下車せるは七時前。徒歩帰家。遅き朝食を取り、昼過ぎまで寝る。南美子、秩父より帰茅し居れり。夕刻、秩父より南雄、敏子、来茅。にわかに賑やかとなる。夜、田中氏来訪。牛肉百目到来。

9月6日(木)晴天、暑気。留守番の太田氏家族と部屋を取り換える。今日は好天気ゆえ東京に行き見んものと弁当をこしらえ、十一時半ごろ家を出で駅に至る。一汽車前にて上京の手筈の南雄なお駅にあり、ともに十二時九分にて上京す。この列車、大阪より来たりしものにしてなかなか混み合い居り、二人とも窓より乗車す。南雄は東京駅に行き、予は品川にて下車。プラットフォームベンチにて昼弁当を半分食べ、山手線にて新宿下車、景気を見る。新宿は戦時中に倍加する雑踏にて、露店大繁昌なり。みな暗値にて、面白きほど高価なり。セルロイド洗面器五十円、三十五円、■一巻三十五円等の相場なり。予もセルロイド洗面器一個を十八円にて求む。ついで三越に入り見る。二階まで営業せり。二階にて抹茶茶碗一個(七円二十銭)を求め、新宿駅に戻り新大久保下車、焼跡に行く。ちょっと掘りて盃一個完全なるものを発見す。ついで金子方に立ち寄り、先日借りたる袋を返却し、金子より近所の情勢等につき話を聞く。四時、金子方を立ち出で、大久保駅より東京駅に出で、四時四十分発豊橋行にて帰茅す。南雄すでに帰り居たり。今日は新芋入手できてふかし芋あり、珍味なりき。

9月7日(金)半晴、暑気。午前、紀本氏訪問に出でしが、近所の畑にて芋を掘りつつありし女百姓より約一貫目十五円にて新芋を求め、いったん帰家。これを置き、ついで紀本氏を訪い、先日老夫人が忘れ行かれし傘を渡し、縁先にて暫時雑談して辞去。午後三時過ぎ、紀本母堂玄関まで来訪、手打うどんたくさん到来。今夜、予は上京のうえ鳥羽行にて帰名せんかと考え居りしが、このうどんを夜食にし、一同にてゆるゆる夕食をしたため閑談したるため、出発は明朝のこととす。食事、朝、麦飯、茄子味噌汁。夕、うどん、芋、茄子等の油揚。

9月8日(土)晴天、暑気。今朝は茅ヶ崎一番列車、即ち六時三十八分大阪行にて帰名のつもりにて四時起床の心算なりしところ寝過ごし、覚めたるときはすでに四時半を過ぎ居り、これより食事の支度をなしては到底これに間に合わず。むしろ横浜まで逆行して東京八時半発の下関行急行に搭ずるにしかずと、ゆるゆる支度をなし、朝食後七時家を出で、停車場に至る。プラットフォームにて桑木厳翼博士に逢い、ともに乗車。予は横浜下車、桑木博士は東京に行かる。急行の横浜発は九時五分なり。二等の寝台車に入りたるに、幸い座席あり。老紳士に隣り腰を下ろす。この人、稲畑勝太郎氏〔稲畑商店創業者、駐日大使ポール・クローデルとともに日仏文化協会を設立、1862~1949〕なり。気軽にいろいろ話す。稲畑氏の従者に聞けば同氏は今年八十四歳の由なるが、十歳ほど若く見ゆ。耳等も確かなり。大船に着き、さらに発車して三四分も走りし後、停車して逆行を始め、また駅に戻る。急行車としては珍しき現象と驚きしが、やがて車掌入り来たり、予等より三つほど先の座席の一区画を空けてくれとて乗客を他の席に割り込ませたり。誰か大官にても乗ることかと思い、それにしても急行車の出直しは珍しと目を見張れば、どやどやと入り来たれるは英国、カナダ等の若き士官四名ほどと案内者らしき男なり。なるほど現下の本邦にては急行車を呼び戻すくらいこの連中ならば易きことと、この新現象につくづく敗戦国の惨めさを痛感せり。しかしこの列車は結局名古屋へ三時十四分正確に着したるところを見れば、大船発車を急ぎ過ぎたるものかもしれず。今日は電車も好都合にて、八事の寓に帰着せるは四時十五分。総長は昨夜出発せられたる由。食事、朝(茅ヶ崎)、芋入り麦飯、茄子、馬鈴薯味噌汁。晩、ソーメン汁(代用)、煮茄子、カボチャ煮付、トマト、瓜漬物。

9月9日(日)晴天、暑気。午後四時ごろより雷鳴とともに大夕立あり。七時ごろに至りて晴れる。午前九時半過ぎ、家を出で登学。八事線停電のため、徒歩登学。四日市二燃よりトラック三台分の荷物到着し居れり。なお一車、今日中に来るはず。午後三時半ごろ西方に黒雲出で、驟雨来襲のおそれありしため帰途に就く。傘を持てばよかりしものを、まだ大丈夫と杖を携う。東山終点より電車に乗り、月見坂まで来たりしとき停電となり、かつ黒雲すでに天を蔽い遠雷しきりに聞こゆ。やがて大粒の雨降り始め、間もなく注ぐがごとき驟雨来たる。電車なかなか動かず、約三十分も停電の後動き始め、今池に来たりし時やや小降りとなる。幸い八事線の連絡よくあまり濡れずに済みしが、雷鳴間近となると同時にまた大降りとなり、終点にて下車せるときは相当の大雨なり。やむなく一度屋中にて雨宿りをなす。ここにて歴戦の一水兵と語る。大和、武蔵が七万噸なること、大和は台湾基地を出づるや、待ち構えたる敵潜艦より十六本の水雷を喰らい撃沈せられたること、残れる船艦の大部は呉にて撃沈せられたること、蘇連が参戦の日まで毎日八千本のドラム缶のガソリンを浦塩より南樺太に供給しくれ、わが邦はクーリーを使いてこれを安全地方に格納しつつありしこと等、珍しき話を聞く。やや小降りとなりし暇を見て、この水兵に別れを告げ立ち出で急ぎ帰家す。それにても相当濡れたり。菅原君すでに到着し居られたり。今夜は八事停電にて電灯つかず、蝋燭にて夕食す。ラジオも聴く能わず、退屈のため九時バッドに入る。その後、上田氏到着。食事、朝、唐茄子味噌汁、玉葱馬鈴薯煮付、瓜茄子漬物。夕、薩摩芋煮付、菜ひたし物、カボチャ味噌汁、瓜茄子漬物、大豆入り粥。弁当、薩摩芋、乾麺麭、卵半熟二個。

9月10日(月)晴天、暑気。朝、徒歩にて菅原君とともに登学。戸田氏より鶏卵十二個(二十円)、カボチャ二個、薩摩芋百目ほど(七円五十銭)入手。午後二時前より卒業生成績会議あり。二十四名の予定者中、合格者十八名。ついで教授会に移り、例のごとく前会の記事承諾の後、人事として数学三人、物理一人、化学二人助手採用の件を認め、ついで各教室より疎開地より帰還希望状況を聴取し、四時散会。帰途また菅原君と徒歩。技術院より特配の米(約七百瓦)、乾麺麭一袋の配給を得。食事、朝、焼茄子、大豆煮付、付合せ菜味噌汁、漬物。晩、茄子煮付、カボチャ煮付、瓜茄子、梅干、大豆入り粥。弁当、薩摩芋、卵二個。下方氏来訪、味醂粕到来。

9月11日(火)曇天、午前時々小雨、午後時々日光を洩らす。午後五時ごろより雷鳴とともに大驟雨盆を覆すがごとくに時間ほど続く。朝、菅原、上田両君と電車にて登学。今池より仲田まで歩き、バラック茶屋買い物し、さて待てど暮らせど東山行来たらず。池下まで乗り、ここにてまた待ち、ようやく東山行来たりて教室に着きたるは十一時過ぎ。二時間余もかかる。森田■義氏来訪、白麻一反到来。午後、大雨の上がるを待ち六時教室を出で、菅原君と徒歩帰寓。夕食に隣家の谷野氏を招待す。食事、朝、焼茄子、焼唐辛子、菜味噌汁、菜ひたし物、漬物。夕、(代用)大豆饅頭、馬鈴薯、菜ひたし、卵、煮豆、漬物。昼弁当、薩摩芋、半熟卵二個、乾麺麭等。

9月12日(水)曇天。今日より二泊にて菅原君とともに菅島〔臨海実験所〕に行く約束あり。また、上田氏は早朝発にて東京に行くとのことにて、一同早起き支度をなし、上田氏は六時前出発、予と菅原君とは八時半寓を出で、八事終点より電車に乗る。今日は珍しく電車の都合よく、今池にては名駅行にすぐに乗ることを得て、おそらく最短時間にて名駅着。ちょっと待つうち改札始まり、湊町行に乗車す。九時四十八分発なり。初めは席なかりしが、四日市あたりより座席を得。亀山にて正午前乗り換え、これも間もなく席を得て、比較的楽々と午後一時半鳥羽着。迎えの船にて菅島に着きたるは二時過ぎなり。椙山氏滞在中なり。ここの松村末治郎君、応召中なりしが偶然吾人と同じ列車にて復員帰還したるためその話など聴き、三時ごろより五時ごろまで昼寝す。ついで入浴。午後六時食事。食後雑談。九時ニュース後就寝。食事、朝、茄子焼物、代用ふかし団子、たくあん、里芋、味噌汁。夕(菅島)、イナダ刺身、イナダ切身煮付、馬鈴薯煮付、たくあん。

9月13日(木)雨天。終日雨天のため外出もできず、籠り暮らす。相変わらず■■や昼寝、ラジオ聴取、その他方法もなし。食事、朝、葱すまし汁、イナダ塩焼、たくあん。昼、イナダ煮付、カボチャ煮付、たくあん。夕、イナダ塩焼、あわび酢の物、白小豆煮豆。

9月14日(金)朝しばしば驟雨。午後半晴、すこぶる蒸し暑し。夜また大驟雨、雷鳴。今日は一同菅島を引き上ぐ。早朝の汽車のほう混雑せぬとのことにて早起きし、五時半朝食を取り、六時十五分出発。■■■村田よりアラメ、フノリ等の土産を貰う。また、一尺ほどのイナダを買い取り持参す。椙山君、二人の女補助員も一緒に帰る。七時十分鳥羽発、十時亀山にて乗り換え、名古屋に着きたるは十一時半。笹島まで歩き東山行にていったん教室に行き、すぐに魚の腹を抜き、塩をふり等始末をなす。午後四時、菅原君と徒歩帰寓。総長、今朝早く帰名の由、いろいろ東京や文部省方面の情報を聞く。夜、隣家の谷野氏来訪、海宝麺なるものを到来す。食事、朝(菅島)、もずくすまし汁、あわび煮付、たくあん。昼弁当、焼肴、梅干、薩摩芋、半熟卵等。夕、イナダ塩焼、芋の葉ひたし物、冬瓜、■■■■■、カボチャ煮付、漬物。

9月15日(土)快晴、暑気。往復とも電車、菅原氏と同行。午後一時より評議会、復興建築の件懇談、午後三時過ぎ散会。昨日米飯過食のためか、少しく腹具合を損ず。事務の戸田氏より卵十個入手(二十円渡す)。昼ごろ大八木氏来訪。食事、朝、薩摩芋煮付、芋の葉味噌汁、菜ひたし物、漬物。夕、(代用)ふかしパン、イナダ煮付、冬瓜汁、菜ひたし。弁当、唐茄子、卵。