柴田雄次(1882−1980)
柴田南雄の父雄次は1882年東京に生まれました。旧帝国大学で化学を専攻し無機化学研究の分野において多大の業績を残すと共に都立大総長、日本学士院会長などを歴任し日本の科学研究と教育に尽くしました。科学書を多数出版しましたが一方で文学を愛し数多くの文章、詩歌を遺しました。 |
留学時代私談 | 自然科学も哲学も芸術も、公園の花壇に咲き乱れる花のようにどこにでも手の届くところにあって、人の手を觸れるのをとがめないとでも云うべき様相であると感じた。 (1913年、パリにて) |
歌稿、詩稿 | 建設中 |
続歌稿 | 身の内に脈うついのち年を知らす 暦を繰れは九十二といふ (1974年) |
都立大学総長時代の式辞と別辞 | 諸君が社会に於て何等かの難関に遭遇せば先ず知性を働かせてその事柄を分析せよ。人には寛容であり善意を以って接せよ。そしてその事象の周辺と奥行の深さとを熟視して結果と影響を熟考せよ。 (1957年) |
柴門会録 | 多数の門弟諸君に囲まれて歓談すること此緊迫時局中に於ける一忙中閑事ながら、感謝感激と共に愉快極りなきことなりき。 (1944年、62歳の誕生日) |
柴田雄次日記 (昭和17年) | いずこの駅とも知らず、ふと覚むれば大声にてアナウンスし居れり。曰く「皆様に申し上げます。今日午後十時十分大本営発表によれば、今日七時五十分シンガポールは陥落いたしました」と繰り返し居れり。(1943年、大阪行きの夜行列車にて) |
柴田雄次日記 (昭和20年) | 吾人怒憤痛恨の極みなれども、聖慮畏くも人民の苦難これ以上に及ぶことに宸襟を悩まし給いこの措置に出で給いしとのこと、誠に恐懼の至りというのほかなく、その責は国民一個一個の負わざるべからざるところというべし。 (1945年、ポツダム宣言を聞く) |
柴田雄次日記 (昭和44−47年) |
どの道を歩きても長の字の紐を後に引ずりいたるが、今日にてきっぱりこれと縁を切り身軽るとなる。今日は実に予の一生に取って記念すべき日なり。 (1970年、89歳で公職を退く) |
サンガクシャ |