アラスカ アンカレッジ空港


☆ミュンヘンにつきました

 ミュンヘンの空港からバスにのって、ずいぶんながいこと走り、ミュンヘン中央駅でおりました。ホテルは駅のすぐ近くで、大きい通りに面しています。通りはにぎやかですが、青山通りみたいに車がしょっちゅう走っているわけではなく、歩いている人たちは、すきかってな所でへいきで横断します。

 ママが荷物を整理している間に、パパがオペラ劇場から切符をとってきてくださいました。あしたの晩はリヒアルト・シュトラウスの『ばらの騎士』、あさってはやはりシュトラウスの『カプリチオ』、その次の夜はツィンマーマンの『ゾルダーテン』を見る予定です。

 ミュンヘンは古い町で、昔ドイツがいくつもの国にわかれていた時には、王様の宮殿のある首都でした。戦争の時にめちゃめちゃに町がこわされたそうですが、戦争のあとで建てた家もずいぶん昔風なので、町全体がおちついた感じです。今度のオリンピックはここで行われるので、あちこちで工事をやっています。一休みして、ごはんを食べにでかけました。窓の所にゼラニウムの花がいっぱい咲いているレストランで、スープと焼いたますと、ジャガイモとサラダを食べました。日本人が珍しいのか、まるで樽のようにふとった支配人がパパの所へ来て、写真をとらせてくださいと頼みました。写真屋さんは三枚もとったので、給仕さんはその間中スープのお茶わんをさしだしていなければなりませんでした。

 ごはんがすんでから、町を散歩しましたが、もう7時すぎなのにとてもあかるいのです。デパートや大きいスーパーマーケットでは、夏の洋服のバーゲンセールをやっていて、「これが最後のおお安売り」とか、東京と同じようにでかでかとはり紙がしてあって、おかしくなりました。ただし、ドイツ語でそう書いてあるのです。たしかに町を歩いていると、自分が地球の反対側からはるばるやってきた外国人だと思えなくなります。なんだか昔からここに住んでいるようで、これでドイツ語がペラペラと口からでてくればいいのですが。日本の生活はしらずしらずのうちに、ヨーロッパの生活に似てしまったのでしょう。

 この町が東京と違うところは、町のあちこちに広場があって、花壇に花がいっぱい植えてあったり、にぎやかな電車通のそばに大きい木の茂った公園があることです。町の大きさは東京よりずっと小さくて、住んでいる人は130万人、つまり東京の約8分の1です。二台つづきのかわいい市内電車が走っていて、あしたはそれに乗りたいと思っています。大小のおばあちゃまによろしく。
ミュンヘン ホテル・エクセルシオール7/29

ミュンヘン中央駅 ホテル・エクセルシオールの食堂


美術館 アルテ・ピナコテーク
オペラ『ばらの騎士』(R・シュトラウス)

 今日はずいぶん忙しい一日でした。朝早く目がさめてしまったので、朝ごはんを食べてから、すぐ隣りにある郵便局で切手を買い、手紙を出し、地図とエハガキを買いました。通りにはずいぶん早くから、果物屋のおばさんが車に梨や小さい桃やぶどうやさくらんぼを山のように積み上げて売っています。おつとめに行く男の人が桃を一袋買って、かじりながら歩いていきました。

 今朝は涼しくて、ママは長袖のセーターを着ていたくらいです。20分ほど歩いて美術館に行きました。ドイツ語ではピナコテークというのですが、古い絵を集めたアルテ・ピナコテークと、新しい絵を集めたノイエ・ピナコテークと二つあって、今日行ったのは古い方です。1400年頃から1700年代まで、日本でいえば戦国時代の始まるちょっと前から江戸時代の半分位までの間に描かれた絵が、気の遠くなるほどたくさん並んでいます。古い絵には、描いた人の名前がわからないのもありました。教会の祭壇や壁を飾るために描かれた絵がいちばん多くて、たいてい聖書のお話をもとにしています。ギリシャ神話の中のお話を描いた絵もあります。そのほかには王様や貴族の肖像画がたくさんありましたが、昔は写真をとるかわりに絵描きさんを雇って描いてもらったのでしょう。

 ミュンヘンは前にも書いたように、バイエルンという国の都でした。ここの王様は代々絵や音楽が好きで、絵描きや音楽家を呼んで来ては仕事をさせました。それで今もこんなにたくさんの絵が残っているのです。

 特に、ピーター・ルーベンスというオランダの画家の絵がいっぱいあって、中でも畳十六枚分くらいの大きさの「最後の審判」の絵はものすごいものでした。世の終わりに、よい事をした人は天国へ、悪い人は地獄へ行くことになるというキリスト教の教えをえがいたものです。 縦長の絵の上の方に神様が坐って、そのまわり天国に入るのを許された人たちがのぼって来ます。少し下には、天使が左手に盾を持ち、右手に稲妻をつかんで、地獄行の人々を追い払っています。悪人達は、絵の下の方の地獄へとまっさかさまに落ちて行くのですが、そこには蛇や蛙や、わにやとかげを一緒にしたような、気味の悪い悪魔がうようよいて、落ちてくる人をうれしそうにつかまえています。こんな残酷な場面をかいた人が、りり宛てのエハガキのようなかわいい子供たちや、やさしい聖母マリアの絵もかくのですから、ふしぎです。

 大体、聖書のお話をえがいた絵は、半分以上がそういう残酷な描き方で、十字架につけられたキリストの手や足から血が流れていたり、足もとにどくろがころがっていたりします。こういう絵は、眺めて楽しむための絵ではなくて、見る人を驚かせ、神様のことを思い出させるためにあるのでしょう。アルテ・ピナコテークの建物から出て、公園のベンチに腰かけた時には、すこしほっとした気持になりました。それから、はじめて市電に乗って帰りました。

 今朝は朝早く起きて古い絵ばかり集めている美術館に行きました。
500年くらい前のから100年前くらいのまで、あまりたくさんあるのでぼうっとなるほどです。
この絵はグリューネワルトのマチスという人が描いた「聖エラスムスと聖マウリチウス」で、本物は畳2枚分くらいです。
全部の絵を見るのに4時間かかりました。
全部で1000枚以上の絵を見たので、足はフラフラ、目はチカチカしています。
古い絵には聖書のお話を書いたものが多く、これはヨゼフとマリアが、悪いヘロデ王に赤ちゃんのキリストを殺されないようにエジプトへ逃げていく途中一休みしている所です。
ヴァン・ダイクという、オランダの人の絵です。

 セルフ・サービス食堂でお昼ごはんを食べてホテルに帰り、オペラの時間を調べたら、6時に始まることになっていたので、昼寝するひまもありませんでした。

 オペラ劇場は王様の宮殿だったレジデンツ(すまいという意味)の隣りにあります。太い石の柱が何本もならんでいる入口から入ると、天井からおおきなシャンデリアがさがり、6階まである座席の壁にはきれいな浮彫りの模様があって、昔のお城の中に居るようです。裾までの長いイヴニングドレスを着た女の人がおおぜいいて、ママを3人あわせた位太ったおばあさんが、キンキラの長いドレスに毛皮の肩かけをしているのなんか、本当にいい感じでした。

 今日見たのは、リヒアルト・シュトラウスの『ばらの騎士』です。シュトラウスはミュンヘンで生まれて育ったそうですが、ここでシュトラウスの音楽を聴いていると、日本で考えていたのとずいぶん違いました。オペラの筋は簡単なもので、オクタヴィアンという美しい青年が、オックス男爵のお使いで、銀のばらの花をゾフィーにとどけます。ゾフィーはきれいなおじょうさんで、デブのオックス男爵はゾフィーと結婚しようとしているのです。『ばらの騎士』というのは、つまりばらの花をもってお使いにいくオクタヴィアンのことです。ゾフィーはおつかいに来たオクタヴィアンがあまりすてきなので、かつらをかぶったオックス男爵よりもオクタヴィアンの方が好きになってしまいます。そこでオックス男爵はカンカンになって怒るし、いろいろ騒ぎがおこりますが、最後に若い二人がめでたく結婚するというお話です。

 よく、オペラではそういうことがあるのですが、若い男の人の役を女の人が歌います。だから、やさしいアルトのオクタヴィアンの声と、オックス男爵の低い声がまるで別物なのでおもしろいし、またオクタヴィアンが、オクタヴィアンをかわいがっている元帥夫人やゾフィーと一緒に歌うときは、どちらも女の声なので、すばらしくよくあいます。

 オペラは第三幕までありますが、二幕目のはじめに舞台の奥の扉がさっと開き、銀色のかざりのある白い服をきて白い靴下と白い靴をはいたオクタヴィアンが、銀のばらを持って出てくるところは、音楽も舞台の眺めもすばらしいものでした。

 シュトラウスの曲は難しいので、オーケストラは大いそがしです。舞台のすぐ下にオーケストラ・ボックスがあって、歌はそれを越えてこちらに響いてきます。明日は宮殿の中にあるもっと小さい劇場で、やはりシュトラウスの『カプリチオ』を見ることになっています。
ホテル・エクセルシオール7/30

ミュンヘンのアルテ・ピナコテークは、レンガでできた古い建物で、方々に爆撃でこわれたあとがあります。
二階に大きい絵がたくさんかざってありますが、一番大きいのは目白の家の二階の2つの部屋をつなげたくらいです。
これは380年くらい前の絵で、ルーベンスの「くだものの輪」です。
ミュンヘンの国立劇場


☆美術館 レンバッハ・ハウス:カンディンスキーと「青い騎士」の画家たち
☆オペラ『カプリチオ』(R・シュトラウス、キュイヴィエ劇場にて)   

 昨日は夜オペラから帰ってきたらもう11時半で、とうとう手紙が書けませんでした。今、朝の5時半で、パパはまだオネンネです。外はもう明るくて、セーターを着て寒そうに首をちぢめた人が歩いていきます。

 昨日は、朝、まずバスに乗ってノイエ・ピナコテークに行きました。ここには、100年ほど前からの絵がたくさんあって、ピカソやクレーも並んでいます。おととい行ったアルテ・ピナコテークと違って、ドイツの画家がかいたのにはつまらないのが多く、その代り、セザンヌ、ルノアール、ドーミエなど、フランスの画家のいい絵がたくさんありました。この美術館は、イギリス庭園という大きな公園の入口にあります。この公園の大きいこと、見わたす限りの芝生の間に道がうねうねと続いていて、頭の上に茂っている木々には、いろんな花が咲いています。

「ドン・キホーテ」
アンリ・ドーミエ(1808〜1879)
「移住者たち」
オスカー・ココシュカ(1886〜1980)
1916/17年の作

 ミュンヘン市の中を流れるイザール河に沿っていて、巾はおよそ1キロですが、長さは10キロ以上ありそうです。公園の中を、イザール河からわかれた小川が音をたてて流れていて、その川べりの芝地には、水着を着て日光浴をしている人がたくさんいました。赤ちゃんをつれたおかあさんや、犬をつれたおばあさんが、ゆっくり散歩道を歩いています。

 パパとママは、公園の前からまたバスに乗って駅まで行き、そこから歩いてもう一つの小さい美術館に行きました。それはミュンヘン市の美術館で、小さいけれどすばらしいものです。(ピナコテークは二つとも国立です。)まず、建物は、100年ほど前に建てられた普通の家なのですが、通りに面した広い前庭には噴水があって、あちこちに鉄の彫像や花の鉢が飾ってあります。まっ赤なゼラニウムや、白や紫のペチュニアが、窓のところにも溢れるように咲いています。

 ここは、もとレンバッハという画家の家だったので、レンバッハや他の人たちの古めかしい絵がたくさんあります。でも、パパとママが見たかったのはそれではなくて、ここにあるカンディンスキーのたくさんの絵なのです。カンディンスキーはロシア生まれの画家ですが、1911年にミュンヘンで、クレーやマッケなどと一緒に「青い騎士」(ブラウエ・ライター)というグループを作りました。この人たちは、目に見えるものを描くというそれまでの絵と違って、自分の心の中にあるものを絵にしようとしたのです。これがドイツの表現主義という運動の中心になり、やがてこのごろの、何が描いてあるのかさっぱりわからない絵(こういうのを抽象画といいます。)のもとになったのです。

 この美術館には、カンディンスキーのたくさんの絵が、大体描かれた順に並べてあって、描き方がだんだん変わっていくのがよくわかります。

 次の4枚の絵葉書だけでも、だんだんに物の形がくずれて色だけになり、線に移っていくのがよくわかるでしょう。カンディンスキーのほかにも、「青い騎士」グループにはいっていたマルクやノルデの美しい絵がたくさんありました。

「風景の中のロシアの美女」
ワシリー・カンディンスキー (1866〜1944)
1905年、39才の作
「ムルナウの汽車」
ワシリー・カンディンスキー
1909年、43才の作
「即興19番」」
ワシリー・カンディンスキー
1911年、45才の作
「円と点」
ワシリー・カンディンスキー
1939年、73才の作


「雪の中の鹿」
フランツ・マルク(1880〜1916)
「風車」
エミール・ノルデ (1807〜1956)
「二人の男が高いところでであった」
パウル・クレー (1879〜1940)
1903
「冒険に行く人々の船」
パウル・クレー
1927

 このような、新しい絵のもととなった作品が、100年も前の家に並べてあるのは、全く不思議な感じです。何しろこの建物は、部屋の天井の高さが外苑ハウスの部屋の三倍くらいあって、柱や壁や天井にこまかい浮彫りの飾りがあり、あちこちに大きい壁かけや、古いたんす、テーブルなどが置いてあるのです。大理石のアーチをくぐって次の部屋に行くと、思いがけない所に階段があったり中庭があったりして、今にもそこから、ふくらました長いスカートをはき、手に扇を持った女主人が出てきそうです。

 ぶらぶら歩いて駅前まで帰って来てデパートに入ったら、ここはたしかに20世紀でした。ちょうどピーコック・ストアと同じようで、大売出の札がピラピラ天井からさがり、買物かごをさげた女の人たちが、靴の山をひっくりかえしたり、布を胸にあてて鏡をのぞいたり、たいへんな騒ぎです。ママは本売り場で「フリーデマン・バッハ」という小説を195円で買い、食料品売場でまっかなさくらんぼを500グラムと桃を7つ買いました。全部で355円でしたから、果物はずいぶん安いと思います。日本の果物のようにきれいに箱につめたり紙で包んだりせず、さくらんぼは大きいかごに山もりにして、はっぱまでついていました。両方ともとてもすっぱいけれど、いいにおいがして、本当の果物という感じです。

 夜は宮殿の中の古い劇場で『カプリチオ』を見ました。柱や壁の金色のかざりは、戦争中ははずして田舎へ持っていってあったそうです。幸い、爆弾が命中しなかったので、建物も傷つかず、今は昔のままのきらびやかさです。200年前に、モーツァルトが自分のオペラをここで指揮したそうです。

 ママは東京で何回もドイツ・オペラを見ましたが、オペラが生れた場所とどんなにしっかり結びついているかが、今度はじめてわかりました。日本で考えていたのとあまり違うので、ちょっとショックです。日生劇場のような大きな舞台では、歌い手はずっとむこうにいるし、オーケストラはずっと下の方で、影も形も見えないくらいです。お客さんはただ遠くで聴いて、遠くから拍手するだけです。ところがここの小さい劇場では、白髪の指揮者がバイオリンに合図しているのがよく見えますし、歌い手はまるでお客さんに話しかけるようです。演奏は『ばらの騎士』よりずっとずっとすばらしくて、幕が下りてからも皆拍手を続けていてなかなか帰りませんでした。筋は少し難しいので、今はやめておきましょう。
ホテル・エクセルシオール8/1早朝

ミュンヘン レジデンツの中のキュヴィエ劇場


☆遠足の終点ボイエルベルクは何もない田舎だった
☆ヴォルフラーツハウゼンの町
オペラ『ゾルダーテン』(ツィンマーマン)
☆遅れてきた旅の贈り物

 パパとママが出発してからもう五日たちました。皆おばあちゃまのおっしゃることをよく守っていますか。ときどき大岡山に電話をかけてください。
 さて、ミュンヘンの四日目はおもしろいことがいろいろありました。まず、朝、汽車に乗ってみようということになり、駅へ行って時間表を調べ、ユーレイルパス(これは西ヨ−ロッパの汽車に好きなだけ乗れる定期券です。)を使いはじめる手続きをしました。ミュンヘンの市内を流れるイザール河は、ドイツの南にあるアルプスから出てくるのですが、川巾が狭くなっている所は美しい谷の眺めだと案内書に書いてあったので、そこへ行くつもりでした。ところが、詳しいことがわからなかったので、いいかげんに汽車に乗り終点のヴォルフラーツハウゼンで乗りかえてまた終点まで行ったら、かんじんの河はずっと遠くへ行ってしまい、おりた所はまるで何もない田舎でした。

 ドイツでは汽車に乗る人は少なくて、たいてい自動車で走りまわります。だから汽車はすごく古ぼけていて、がらがらにすいています。改札口はなくて、窓口で切符を買うとスタスタと客車に乗りこみます。汽車が出る時もアナウンスなしで、ピーと笛が鳴ったなったと思うともう走り出していました。

 しばらくの間町の中を走り、町はずれのジーメンス電気会社のものすごく大きい団地のそばを通りました。駅をでて15分しないうちに、あたりはすっかり田舎の風景になってしまいました。広々とした野原にはたくさんの牛が放し飼いになっていて、赤ずきんのおばあさんの家みたいな、赤い屋根と白い壁の家があちこちにみえました。もう少し行くと金色にうれた麦畑がつづき、それから大木のそそり立つ森に入りはいりました。モミの木の森で、まるで魔法使のおばあさんのような形の木がびっしり並んでいて、こわいみたいです。森から出ると遠くに高い山が見え、あちこちの丘の上には教会の高い塔をかこんで家々がかたまり、すばらしい眺めでした。

 ヴォルフラーツハウゼンでガソリン・カーに乗りかえました。一台だけで、ワンマン・バスのように運転手さんが切符を売るのです。でも車体は新しくて窓は広いし、乗心地は上々でした。ガソリン・カーの終点はボイエルベルクという村で、線路の上をニワトリが歩いているような所でした。次のガソリン・カーが来るまで、一時間くらい散歩しましたが、村の中はひと気がなくしんとしています。どの家も三角屋根は赤いかわらで、壁は白く、窓のところに棚をつけて花の鉢を置いています。花は赤いゼラニウムとペチュニア、それから紫色のテッセンのような花がとてもきれいでした。それから、いちじくの木を家の壁にはりつけている家がいくつもありました。こんなふうに木がペタリと家にはりついているのです 横から見ると、壁にくくりつけた格子に枝が結びつけてあるので、大きな木が押し花のように平たくなっています。

ボイエルベルクの道ばたの花


ロイザッハ河とヴォルフラーツハウゼンの町
後ろの山はヴェッターシュタインとツークシュピッツエ

 次のガソリン・カーで乗りかえ駅のヴォルフラーツハウゼンまで帰ってきたら、乗るつもりだった汽車が土曜日でお休みだということがわかりました。次のミュンヘン行きまで一時間半も待たなければならないので、駅で坐っているのもばからしいし、20分歩いてヴォルフラーツハウゼンの町に行きました。古い町ではこういうふうに、町から少し離れた所に汽車の駅があるのが普通のようです。ヴォルフラーツハウゼンの町はきっと古くからあるのでしょう。屋根が低く窓の小さい建物が通りの両側に並んでいて、町のまん中あたりに塔のある教会と役場がむきあっています。

 暗い穴蔵のようなホテルのレストランでコカ・コーラを飲んで、おつりがないというので隣りのおもちゃ屋で金魚のぬいぐるみを買いました。こんな遠足をしてしまったので、ミュンヘンに着いたらもう5時近くでした。急いで晩ごはんを食べてオペラ劇場へ行ったのですが、雷が鳴ってすごい夕立でした。
 ここで誰に会ったと思いますか?なんと古江先生にお遇いしたのです(古江先生はお茶の水女子大学付属小学校の音楽の先生)。古江先生は午後にミュンヘンについたばかりで、眠くてしようがないといっていらっしゃいました。この日は日本人がいっぱい来ていて、ママは昔のお友達にも会いました。

 オペラはツィンマーマンの『ゾルダーテン』です。ゾルダーテンとは「兵隊たち」という意味で、1958〜60年作曲ですから、ずいぶん新しいオペラです。やり方も変っていて、舞台の上では歌ったり踊ったりするほかに映画をうつしますし、音楽はオーケストラだけでなく、客席にスピーカーを幾つか置いて物すごい音を鳴らします。幕があがると広い舞台の壁いっぱいに、兵隊の長靴が何千となく映っていてびっくりしました。

 お話は簡単にいえば、戦争がどんなに人間をだめにするかということです。舞台には二つの箱が違う高さにつるされていて、その二つがいろいろな町のいろいろな家の中をあらわします。それに下の舞台を加えた三つの場所でお話が進行します。時々、戦争で殺される人の写真や木の枝のかげが、舞台いっぱいに映ったりします。
 こういうやり方は舞台の上の世界をずいぶん拡げてはいますが、少し中途半端な所もあって全部が全部感心するというわけにはいきません。音楽もベルクの『ルル』や『ヴォツェック』にはとても及びません。


 ドイツのお客さんは好き嫌いがずいぶんはっきりしているようです。ママの隣りのおばあさんは、始めから終りまでただの一度も拍手しませんでした。こういうオペラが気にいらなかったのでしょう。この夜がミュンヘンの最後の夜になるので、ホテルへ帰って荷作りをしました。ベッドに入ったのは1時すぎでした。
ザルツブルク ホテル・オイローパ8/2夜




 これから書くのは、今までのような旅行先からの手紙やエハガキではありません。でも、どうしても書いておきたい、そして"旅"がもたらす喜びが、美しい景色や珍しい食べ物、さまざまな新しい体験などだけではないことを知ってほしいのです。

 東京へ帰って半年ほどたったころ(とにかく寒い夜でした)、ママはドイツの詩人ライナー・マリア・リルケの『フィレンツェ便り』を読んでいました。翻訳はその年出たばかりで(訳者は森有正氏)、ママは半年前に見てきた美の宝庫フィレンツェが、どのような光と影をリルケの心に残したのか知りたかったのです。
 この本は次のような言葉で始まっています。


フィレンツェ 1898年4月15日

 "これからあなたに宛てて日記を書き始めることができるほど、自分が十分に落ち着きを得、成熟の域に達したかどうか――そういうことはわたくしには一切判らない。ただわたくしは、あなたが、あなたのものとなるこの一冊の本の中で、すくなくともわたくしが内密に、秘密に書きとめるものを通して、わたくしの告白をうけて下さらないうちは、いつまでもわたくしの喜びは自分に縁の遠い、孤独のままでとどまるだろうということを感じるばかりである。"



 この本は、ロシア生まれの年上の恋人、ルー・アンドレアス・ザロメにあてたリルケの書簡集なのです。ママは突然目がくらむような気がしました。次の一節につきあたったからです。


 "昨晩わたくしは、食卓で隣に坐る若いロシヤの婦人と海の方へ長い散歩をした。その間わたくしたちは芸術や人生についての、事物についての、夢に過ぎないあの美しい紋切型の言葉をやりとりした。しかし多くの良い言葉も言った。道は森に沿って進み、その縁は至る所、
小さい蛍に満ちていた(それは恐らく、あなたの姿の前に自分を見失わせ、自然についての熱烈な言葉を口にさせた、ヴォルツラーツハウゼンの光に満ちた夜な夜なの内密な思い出であった)。"


 これはあのヴォルフラーツハウゼンのことではないか。ヴォルツラーツは書き間違いに決まっています。部屋は南ドイツの午後の強い陽光に満たされました。白壁の家々の窓辺を飾るゼラニウムとペチュニアの花。
 ママにとって、リルケは長いこと「第一の作家」でした。『マルテの手記』をいつも机に置いていた時期もあります。その人がひと夏をすごした町をパパとママは知らずに歩いていたのです。もっともリルケがルーや友人たちとヴォルフラーツハウゼンに家を借りたのはのは1897年のことですから、どこかの街角で若い詩人とその恋人を見かけるなど、ありえないことです。
 それでも、あの町にリルケとルーが住んでいたことを知っただけで、あの日の午後の時間は途方もなく貴重なものになりました。3年ほど後にママはルー・ザロメ著作集を買いました。ヴォルフラーツハウゼンの園亭で撮影されたリルケの写真が、第4巻の巻頭を飾っています。
 これこそ、後から届いた旅の最大の贈り物でした。



ミュンヘンのトップに戻る
ザルツブルグに進む
ヴィーンに進む
プロローグに戻る
ヨーロッパ音楽祭紀行
柴田純子旅のたより
サンガクシャ