ヴィーンへ

 窓の外には黄色くうれた麦畑と青々とした牧草地がかわるがわるひろがり、牧草地では、冬の間牛に食べさせる干草を作るために草を刈って、それを長い熊手のようなものでかきあつめ、ぎゅっと四角に押しつぶして車に積んでいます。ずいぶん小さい子供まで、お父さんやお母さんといっしょに働いていました。

 汽車は東へ東へと、オーストリアの国の横巾の半分以上走って、8時にヴィーンに着きました。リンツの町でドナウ河といっしょになり、汽車の窓からゆったりした流れが時々見えました。

 こうして西の方から来てみると、ヴィーン市が今までぼんやり感じていたのよりずっと東の方にあるので、びっくりしてしまいます。今はヨーロッパが東と西にはっきりわかれていて、国をおさめるやり方がまるで違うので特にそういう感じがするのかもしれません。オーストリアの東半分は東側のヨーロッパの国々の中にくいこんでいて、ヴィーンからドナウの流れをくだっていけば、じきに北はチェコスロヴァキア、南はハンガリーになるのです。

 ヴィーン西駅でおり、この旅行でははじめてのタクシーに乗りました。パパとママが泊ったケルントナー・ホーフというホテルは、ヴィーンで一番にぎやかな通りのそばにあるのですが、部屋に入ってしまうと静かで、車の音もあまりきこえません。なんだか町中がしんとした感じです。

 荷物を置いて、大通りの古いレストラン「ツア・リンデ」で食事をしました。もう遅かったのでお店はしまっていますが、ショウウインドウだけはきれいに照らして、皆ぞろぞろと店をのぞきながら歩いていました。さっきフィレンツェに着き、手紙を受けとりました。皆元気そうで安心しています。おばあちゃまのいうことをよくきいてください。
フィレンツェ:ホテル・ポルタ・ロッサ 8/8夜

聖シュテファン教会
観光バスでひとまわり
歴史博物館
美しい黒人たち
オペレッタ『パガニーニ』(レハール)

 今日はヴィーンについた次の朝から始めます。なにしろ前の日が早起きだったので、すっかりくたびれていて、ずいぶんお寝坊しました。お茶とパンの朝ごはんをすませてから、ケルントナー通りをのぼっていって聖シュテファン教会をみました。135メートルのとがった塔が空につきささるようにそびえています。戦争の時に爆撃でめちゃめちゃにこわれたそうで、その時の写真がかざってありました。教会のそばに国立オペラ劇場があります。これもりっぱな建物ですが、夏なのでオペラはお休みでした。

オペラ劇場前の広場で、ちょうど観光バスが「ヴィーンひと回り一時間、ベルヴェデーレ宮殿にもいきます!」といってお客さんをあつめていたので、100シリング払ってバスに乗りました。

おひるの11時半で暑くて暑くて閉口しましたが、ヴィーンの昔の宮殿や古い広場を見ながら走り、ヴィーン市の南にあるベルヴェデーレ宮殿でバスをおりて、建物とお庭を見せてもらいました。今から250年ほど前に建てられたもので、宮殿から眺めると、ずっと下り坂になっている庭のむこうに、ヴィーンの町がよくみえました。ワルツをたくさん作ったヨハン・シュトラウスの銅像がある公園のそばを通り、驚くほど大きい美術館と博物館のそばを通って、もとのオペラ劇場の前に帰って来ました。

 それから歩いて美術館に行ってみましたが、ここは歴史博物館でもあるので、絵ばかりでなく、エジプトのワニのミイラをはじめ、いろいろな国のいろいろな時代の品物が、ものすごくたくさんの部屋に並べてありました。ここにあるものは、オーストリアがお金を出して買ったものばかりではなく、分捕って来たものもあるのでしょう。アラブの国の人々がこういう所で、自分の国の古い宝物を見たら、ずいぶん厭な気持がするだろうとおもいます。細工ものや飾りものや、つぼやお茶わんをあまりたくさん見たので、目がチカチカしてとうとう絵を見る勇気がなくなってしまいました。大理石の階段をおりて食堂に行ってハム・サラダを食べました。

 ホテルへ帰る途中、お菓子とバナナとオレンジジュースを買い、裏通の洋服屋で黒のパンタロンドレスを買いました。ワンピースのすその方に金と銀で模様がかいてあって、ママが着るとまるでエジプト人のように見えるそうです。今は夏なので、若い人達は顔を思いきり黒くやいて、目のまわりに青いアイシャドウかなんかぬり、まるで黒人のようになって歩いています。男の人は髪やひげをのばしてカトンボメガネをかけ、女の人は長い髪をバサリとたらしているのです。ヨーロッパの人たちがこういうかっこうをしていると、なんだかむさ苦しくて汚い感じです。その反対に、ミュンヘンやヴィーンで見かける黒人たちは、アフリカ人か、中近東の人か、あるいはアメリカ人かわかりませんが、明るい色の服を着て背中をピンとのばして歩いているのがはっと思うほど美しくて、これには驚きました。ずっと昔から考えると、人間が美しいと思うものはどんどん変って来ているのですから、今にもう何年かすると、世界で一番美しい人種は、こういう黒い人達だと皆が思うようになる時がきっと来るでしょう。

聖シュテファン寺院
ヨハン・シュトラウスの記念碑

 町を歩いている間に『ライムント劇場 レハールのオペレッタ「パガニーニ」8月6日から』というポスターが目についたので、ホテルに帰って切符をとってもらいました。

すこし早めにホテルを出て、ドナウ運河に沿って走る電車に乗り、ハイリゲンシュタットの町まで行きました。この電車はちょうど東京の山手線のように、ヴィーン中をぐるっとまわっています。山手線と違う所は、ひどいオンボロ電車で、走る時ガタガタキーキー音をたてることです。

 大きい工場のそばを通って駅に着くと、おつとめ帰りの人たちがぞろぞろと電車からおりました。駅前には、カール・マルクス・ホーフという立派な名前にふさわしい、どっしりしたアパートが並んでいます。カール・マルクスは、19世紀のドイツの社会主義者で、共産主義の考え方を作り出した人です。こういうふうにヨーロッパでは、大きい仕事をした人を記念するために、その人の名前が建物や通りや広場につけられています。このアパートは50年ばかり前の建物ですから、ミュンヘンのところで書いたドイツ表現主義の影響を受けているのかもしれません。赤っぽい壁とアーチ形の大きい通路がグロテスクでした。

 この町は、今はヴィーン市の一部のようになっていますが、1802年に、28才のベートーヴェンがここで夏をすごした時には、まだ田舎でした。その頃ベートーヴェンはだんだん耳がきこえなくなり、ここで2人の弟にあてて、自分が死んだ後のことについて手紙を書きました。ベートーヴェンが自殺するつもりだったかどうかはわかりませんが、この手紙はハイリゲンシュタットの遺書と呼ばれています。ベートーヴェンがよく散歩した道はベートーヴェン通りと呼ばれていますが、時間がなかったのでそこまでは行けませんでした。

 またまた電車に乗り、反対の方にだいぶ走って、グンペルドルフ通りという駅でおりました。劇場は駅のそばでしたが、そのまわりは大きい会社や家具屋さんばかりで、どうみても劇場のあるような場所とは思えません。少し早すぎたので、入り口はまだ閉まっていて、前の道路にお客さんがいっぱい待っていました。楽屋で練習しているのでしょう、テノールの歌い手の声が何度も同じメロディーをくりかえしているのがきこえます。この古ぼけた小さいライムント劇場には食堂もなくて、売店でビールやサンドウィッチを売っています。それでも舞台には立派な幕があり、オーケストラ・ボックスもちゃんとありました。

 ここで見たオペレッタのおもしろかったことといったら、どういうふうに書いたらいいかわからない程です。オペレッタは、言葉の意味は「小さいオペラ」ということですが、こんどこれを見て、オペラとオペレッタはなかみがまるで違うことがよくわかりました。レハールという人はたくさんオペレッタを作っていて、『メリー・ウィドウ』というのが一番有名です。今年はレハールが生まれてからちょうど100年目なので、記念公演に『パガニーニ』をやっているのです。

 パガニーニは皆も知ってるかもしれないけれど、イタリア人のヴァイオリニストで、魔法をつかってひいていると思われたくらいヴァイオリンが上手でした。ヨーロッパ中を演奏旅行して、特に女の人にはとても人気がありました。お酒やかけごとが大すきで、とうとう最後にはコレラかペストかそういう伝染病で、どこかの島で死んだはずです。オペレッタのお話は、パガニーニが北イタリアのルッカの宮殿に来て、いろんな事件をおこしたあとまた旅に出て行くというものです。パガニーニに会った女の人は、宿屋の娘も、チョコレートずきの年とった男爵夫人も、ナポレオンの妹にあたる公爵夫人も、公爵のお気に入りの美しい踊子も、みんなパガニーニを好きになってしまいます。

 オペラと違って、ふつうに話すようなせりふのやりとりの間に歌がはさまり、踊りや、お客が大笑いするようなこっけいな仕草がたっぷり入っています。歌い手がひとくさり歌い終わるとお客さんが拍手します。するとアンコールで、もう一度今の歌をくり返してきかせます。

名前は忘れましたが、うつくしい踊子になった女優さんには本当にびっくりしました。踊りながらちっとも息を切らさずに歌います。第2幕では踊ったあとトンボガエリを10回も続けてやりました。ほんとうのトンボガエリで、さかさまになると、おへそまで見えるのです。しかも、もっと驚いたことには、お客さんが拍手かっさいしたらアンコールで同じことをすぐ又やったのです。

 3時間のオペレッタに、大切な役の人たちはほとんど出っぱなしですから、大変な芸の持主でなければつとまらないでしょう。俳優さんたちは皆感じを出すのが上手で、公爵夫人はいかにも上品で威厳がありますし、パガニーニはすっきりとすてきで女の人に好かれそうですし、踊り子は気が強そうで、人の心をひきつけるような様子でした。

みているお客さんの方はいろいろで、でっぷりしたおばあさんが、3,4人で連れだって来ていたり、素敵なイヴニングのお嬢さんと若い男の人の組合せもあり、お母さんが子供を連れて来ているのもありました。

 指揮者はまだ若い人ですが、棒のふり方を見ていると、音楽をすみからすみまで知りつくしているのがわかります。歌い手が歌う時には、自分も言葉を口の中でもそもそ呟いているのがよくみえました。すっかり感激して、ホテルの近くのシュエーデンプラッツ駅で電車をおりた時は、もう11時をすぎていて、おひるにハムサラダを食べただけだったので、うえ死にしそうでした。まだあいているレストランがあったので、そこでヴィーン名物のとりのカツレツを食べてようやく人心地つきました。

 8月7日の朝はまたまた寝坊したので、シェーンブルンの宮殿に行くのはやめて、ヴィーンで一番古い教会に行ってみました。そのあたりはヴィーン市の中でも一きわ高い丘になっていて、紀元200年頃にもう町があったそうです。今から1700年以上も前のことですから、どんなにこの市が年とっているかわかるでしょう。

この古い教会は簡単な石づくりで、聖シュテファン教会のようにごちゃごちゃした飾りはありませんでした。ホテルに帰って荷物をまとめ、空港ターミナルからバスに乗って、シュヴェヒアト空港にむかいました。これでヴィーンとはおわかれです。飛行機は山を越えてイタリアに入り、ヴェネチアのサン・マルコ空港につきました。ヴィーンとちがってあまり暑くて湿気があるので、東京の夏を思い出しました。ヴェネチアのことは、又明日書きます。
フィレンツェ:ホテル・ポルタ・ロッサ 8/9

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