乃村さんの車でザルツブルクへ
ザルツブルク音楽祭

さて今日は、むかし日フィルにいた乃村和子さんが、車でザルツブルクへつれていってくださることになりました。朝7時半すぎにミュンヘンを出ましたが、町からアウトバーン(自動車道路)へ出るまで大変なこみ方でした。日曜なので、みんな近くの湖へ遊びに行くのだそうです。道ばたに、リュックサックと寝袋を持った若い人たちがたくさん立っていて、「ザルツブルク」とマジックで書いた大きい紙をヒラヒラさせていました。ザルツブルクまで車に乗せてもらおうとしているのです。夜は外で寝袋に入って寝るのだそうで、こうやって旅行している人があふれるほどです。

 乃村さんの車はオペルカデットで、だいたい120キロくらいで走りましたが、それでもスイスイ追い越されました。だから事故のある時は大変で、10台以上が追突したり、反対側の道路へとびこんだりするということです。ドイツとオーストリアの国境はパスポートも調べないで簡単に通り抜け、10時すぎにザルツブルクにつきました。

 ここはザルツァッハ河に面して、後ろには高い山を控えたとりでのような町です。今は町が河を越えてどんどんひろがっていますが、昔は山と河の間の狭い土地に、教会や宮殿を中心として町があり、山の上にはお城があって、町に入るには城門を通らなければならなかったのです。ここで今、ザルツブルク音楽祭がもよおされていて、毎日のようにオペラや大きい音楽会があります。今日は、パパとママは5時からホフマンシュタールの『イェーダーマン』という劇を見ました。町の一番中心にあるカテドラル(大聖堂)の前に舞台を作って、広場にベンチをたくさん並べ、そこで劇をするのです。広場はちょうど中庭のように建物にぐるっとかこまれていて、その窓からもたくさんの人が劇を見ていました。カテドラルの鐘とオルガンが劇の伴奏をします。広場のまわりの建物は全部石造りなので、鐘やオルガンの音はもちろんのこと、俳優さんの声もがんがん響きわたります。

 ここまで書いたらどうしても眠くなってしまったので、『イェーダーマン』のお話は明日にします。人間がどうやって生きていかなければいけないかを、わかりやすく教えるために、昔、教会でみんなにお芝居を見せたものですが、この劇もそういう種類のもので、今から50年前にザルツブルクのお祭が始まった時、ホフマンシュタールが頼まれて書いたものです。もう11時すぎました。これからおふろに入ります。おやすみなさい。
ザルツブルク:ホテル・オイローパ 夜8/2夜


お芝居『イェーダーマン』(ホフマンスタール)
岩山の上のお城

8月3日の午後1時です。昨日の続きを始めましょう。

「イェーダーマン」というのは、日本語でいうと「すべての人」とか「誰でもみな」というような意味です。この劇は千年も前からあった古いお話を使ってホフマンシュタールが作ったもので、もとのお話は誰がつくったかはわかりません。昔からお父さんから子供に、そのまた子供にというように語りつがれて伝えられて来たのです。

「イェーダーマン」は大金持の男の名前です。舞台は絵のようにカテドラルの真正面に木で作ってあります。山の上のお城で鐘が5つなって、いよいよ始まりです。マックス・ラインハルト教会堂の見上げるような高い窓のところで、トランペット、トロンボーン、ホルンがはじめの音楽を吹き鳴らします。続いて左手の屋上で、それから右手の屋上でラッパの音が響きわたります。

 舞台の上に長い衣を着た人が出て来て、「皆さん、このお芝居をよくごらんなさい。人間の生活がどんなにはかないものかわかるでしょう」といいます。オルガンのすばらしい響といっしょに、「神様」は「死」を呼びます。黒いマントを着てがいこつのお面をかぶった「死」は、「神様」の前にひざまずいて「ご用はなんでしょうか」とききます。神様は「死」に「イェーダーマン」の所に行って、イェーダーマンが今日死ぬことを報せなさいと命令します。

 神様と死が行ってしまうとイェーダーマンが召使をつれて現れます。イェーダーマンは、自分の美しい家やぜいたくな家具、どっさりあるお金の自慢をはじめ、大きな金袋を持ってこさせます。イェーダーマンの立派な家をあらわすために、家の絵をきりぬいて棒の先につけたプラカードを召使の1人がかついできたのは傑作でした。

 そこへイェーダーマンの友達と、貧乏な隣りの男が出て来ます。貧乏な男はイェーダーマンにお金を恵んでくださいと頼みますが、イェーダーマンはほんの少ししかやりません。次に手を縛られた罪人が、おまわりさんに引きずられて来ます。その後ろから罪人の奥さんと子供が泣きながらついて来ます。この男はイェーダーマンに借りたお金が返せなかったので、牢屋へつれて行かれるのです。罪人はイェーダーマンをうらみながら行ってしまいます。イェーダーマンは友だちに、後をついていって、女と子供が暮しに困らないようにしてやってくれと頼みます。友だちといれかわりにイェーダーマンのお母さんが出て来ます。年とったお母さんは、息子に、お金もうけのことばかり考えないで、少しは神様のことも考えなさいといいます。イェーダーマンは、はじめはお母さんのいうことをききませんが、とうとう根負けして、明日その話をしましょうと約束します。お母さんは喜んで行ってしまいます。

 突然、にぎやかな音楽がきこえてきて、おおぜいの男や女が、楽しそうに騒ぎながら現れます。そのまん中に美しい女の人がいます。何人かの若者が、ほんもののたいまつをかかげて並びます。イェーダーマンは女の人と抱き合い、皆は歌を歌います。イェーダーマンは、宴会のはじめの挨拶をしようとして立ちあがりますが、「みなさん、よくいらっしゃいました。これが私との最後のお別れになるでしょう」という言葉が、自然に口からでてしまいます。お客さん達はおどろきますが、イェーダーマンがどうかしているのだと気をとり直し、お酒を飲み歌を歌い出します。イェーダーマンもすっかり楽しい気分になります。

 ところが歌をさえぎるように、重々しい鐘の音がひびきわたります。これは、本当に教会堂の高い鐘楼で鳴らすので、見ている人たちの頭の上に音が降ってくるような感じです。イェーダーマンはびっくりして杯を落とし、「今頃なぜ鐘を鳴らすのだ。何の鐘だ」とききますが、他の人たちには何もきこえません。皆は又歌いはじめますが、今度は広場をとりまいている建物のあちこちから、「イェーダーマン!イェーダーマン!」とよぶ声がきこえてきます。これが実にすばらしくて、近く遠くで呼ぶ声が、石づくりの広場に響きわたり、ほんとうに神様の声のようにきこえます。はじめにイェーダーマンは、それが帰って来た友達の声だと思って安心しますが、すぐに又同じ呼び声がきこえます。これも他の人たちにはきこえないのです。

 やがて、お客さんの間に隠れていた「死」が立ちあがります。お客達はふるえあがり、「死」は神様からのお使いで、イェーダーマンが今日死ぬことを報せに来たといいます。イェーダーマンはびっくりして、「1日だけでいいから待ってください」と頼みますが「死」はききいれません。ただ、「ちょっとの間、お前から離れるから、残された時間をキリスト教徒らしく使いなさい」といって消えてしまいます。イェーダーマンは死にたくないので、友達や、お客の中にいたデブとヤセッポチに助けを求めますが、誰も助けてくれません。とうとうこっそり逃げ出そうと思って、召使にお金箱をかつがせて出かけようとします。するとどこからか「死」が出て来て、「そんな馬鹿なことはやめなさい。時間はどんどんたってしまう」といいます。望みをなくしたイェーダーマンは箱の前に倒れてしまいます。

 突然、箱のふたがガバと開いて、中から金色のマモンが出て来ます。マモンはお金の神様なので、お金をつなぎ合わせた衣裳を着て、ピカピカの仮面をつけていました。マモンはイェーダーマンに、「死ぬ時はどんなお金持でも、生まれた時と同じように裸で死ぬのだ」といって、又箱の中に入ってしまいます。

 今度は病人のようなかっこうの「善い行い」が出て来て、イェーダーマンのために姉さんの「信仰」を呼びます。「善い行い」が杖をついて弱々しくみえるのは、イェーダーマンが今まで善い行いをあまりしていなかったからなのです。「信仰」は女の人の姿で、長い十字架を持ち、イェーダーマンに神様はどんな人でも救ってくださるといいきかせ、神様を信じるかどうかききます。イェーダーマンがひざまずいてお祈りすると、オルガンの音がひびきわたります。舞台の前の方を、召使に手をひかれたイェーダーマンのお母さんが通り、「天の音楽がきこえる。私の息子も救われた」と呟きます。イェーダーマンは立ちあがり、教会の中にはいっていきます。

 その時、客席のうしろの方から、黒いきものを着て角を生やした悪魔が、「待て、イェーダーマン!とまれ、イェーダーマン!」と叫びながら走って来て、舞台によじのぼろうとします。イェーダーマンをつかまえに来たのです。「信仰」と「善い行い」は、「ここにはお前が通る道はない」といって、悪魔を追い払います。悪魔はなかなかあきらめず、あちこちからとび上がろうとしますが、どうしてものぼれません。やがて死んだ人のための鐘の音がひびき、「信仰」と「善い行い」はひざまずき、悪魔はすごすごと行ってしまいます。

 教会堂の中から、長い白い衣を着て、巡礼の杖を持ったイェーダーマンが出て来ます。巡礼というのは、教会から教会へ、お祈りしながら旅をする人のことです。「死」が舞台のうしろを横ぎります。イェーダーマンは目を閉じ、「これから私は墓に入るのだ。そこは夜のようにまっくらだろう。神様、私をおあわれみください」といって、「信仰」と「善い行い」に守られて、お墓の中に静かにおりて行きます。お墓は舞台の一部があげぶたのようになっていて、そこから下へおりていくのです。 天使の歌声がきこえて、お芝居はおしまいになりました。お話は「神様を信じなければいけない。この世の楽しみはすぐに過ぎ去る」という教えをわかりやすくしたものですが、こういうお話が何百年もの間語りつがれ、お祭の時にはお芝居になったりしていたのですから、ヨーロッパの人々の心の中に神様の事がどんなに深くしみこんでいるかがわかります。この日も、淳やりり位の子供が最後までおとなしく見ているのを、何人も見かけました。

 お日さまの落ちるのが遅いので、『イェーダーマン』を見てしまってから山の上のお城にケーブルカーでのぼりました。岩山の上にそびえていて、900年ほど前に作られたそうです。お城からは、ザルツブルクの町がひと目で見わたせます。

 上から見るとざっとこんなふうで、河のまわりのひろがった所にいくつも丘があります。このへんは2万2千年くらい前には大きい湖だったそうで、いまあちこちに見える丘は、その頃は島だったそうです。ザルツはドイツ語で塩という意味、ブルクはとりでとか城という意味ですが、昔からここの岩山で塩がとれたので、こんな名前がついたのでしょう。ザルツブルクという名前が昔の記録に出てくるのは、755年が最初で、町はそれよりずっと前からあったのですから、ずいぶん古い古い町なのです。ここで音楽祭をはじめてから、今年はちょうど50年目だそうです。いろんな国から音楽祭を見にくる人で町中ごったがえしています。今朝は買い物にいってかわいいシールをみつけました。いっしょに送りますから仲良くわけてください。あまりけんかしないように、また手紙を書きます。 
ザルツブルク:ホテル・オイローパ 8/3






オペラ『バスチアンとバスチエンヌ』(モーツァルト)と『奥様女中』(ペルゴレージ)

8月5日の朝5時半です。パパとママは、ザルツブルクの駅を5時42分に出るきたならしい普通列車に乗った所です。これからザルツァッハ河を南にさかのぼってミッターシルの町に行きます。この町は山にかこまれた谷間にあって、ここで作曲家のウェーベルンがアメリカ兵のピストルで射たれて死んだのです。

夜ヴィーンに着く前になんとかミッターシルへ行きたいと思い、400円で鉄道時刻表を買って、おとといから何度も調べました。この汽車に乗れば間に合うことがわかったので、朝4時半に起きたというわけです。

 これでザルツブルクとはお別れですが、おとといの晩はモーツァルトのオペラ『バスチアンとバスチエンヌ』を見ました。宮殿の中庭に小さい廻り舞台を作って、まるでお人形のようなきれいな衣裳を着た羊飼のバスチアンと羊飼女のバスチエンヌが出て来ます。

 2人のけんかを魔法使がやめさせるという簡単なお話ですが、モーツァルトの音楽はほんとうに美しくひびきました。ここはモーツァルトの生まれた町なので(生まれた家もちゃんと残っています)、銅像がありモーツァルト広場があり、チョコレートやビスケットにまでモーツァルトの顔がついています。昨日はモーツァルトのお父さんのお墓にも行きました。
汽車の中で 8/5

買い物と手紙書き。パパはひるね
聖セバスチアン教会のモーツァルトの父の墓
最初のオペラ『霊魂と肉体の劇』(カヴァリエリ、1597)

  毎日忙しく歩きまわっていて、手紙を書くのをすっかり怠けていました。この長い手紙は、ママが日記のかわりに書いているのですから、今は難しくてわからない所があるかもしれません。何年かすればきっとわかるようになると思うので、ざっと読んでとっておいてください。

 さて、この前は『バスチアンとバスチエンヌ』まで書いたのでしたね。この日はその他に、ペルゴレージというイタリアの作曲家が書いた短いオペラ『奥様女中』がありました。このオペラにも3人の人しか出て来ません。主人と女中のセルピーナと男の召使です。子供の時からこの家にいる女中のセルピーナがとてもいばっていて、主人のいうことを少しもきかず、召使をあごで使い、とうとう主人と結婚して奥様になってしまうという筋です。

 召使は何も歌わない黙り役で、しょっちゅう階段につまずいたりころがったり、こっけいな失敗ばかりします。主人がナイト・キャップをかぶり、長い白いねまきを着て、本当は女中がするはずの編物をしてる所など、おなかが痛くなる程笑いました。

 4日は、ここの音楽祭でもらった本や説明書を小包にして出したり、シールを買ったりしているうちに午前中がすんでしまいました。午後はこの前送った手紙を書き、パパが大ひるねをしたので、とうとうあやつり人形芝居はみそこなってしまいました。

夕方からぶらぶら出かけて、モーツァルトのお父さんのお墓のある聖セバスチアン教会へ行きました。モーツァルトのお父さんはレオポルトという名前で、ヴァイオリンが上手でした。ザルツブルクの宮廷に音楽家として仕えていたので、ここで、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが生まれたわけです。レオポルトと、モーツァルトの奥さんのコンスタンツェがいっしょのお墓に葬られていました。

ヘルプリンクが描いた少年モーツァルト
モーツァルトが住んでいた家の音楽室 モーツァルト音楽院の大ホール

 この夜は、コレギウム教会で1597年に作られた『霊魂と肉体の劇』を見ました。17世紀のはじめに、イタリアのフィレンツェで何人かの作曲家や詩人たちが集まり、劇と音楽を結びつけた新しい作品を作り出しました。それが今のオペラの最初の形、つまりオペラの赤ちゃんです。このグループは「カメラータ」と呼ばれていますが、『霊魂と肉体の劇』を作ったエミリオ・デル・カヴァリエリもここの仲間のひとりでした。

 お話は、前に書いた『イエーダーマン』と同じように、人間が神様に従わなければいけないということを教えたもので、「魂」「身体」「世界」「快楽」「理性」「良心」などが、いろいろな姿で出て来ます。たとえば「魂」は白い長い着物とヴェールをつけた女の人で、人間の中の神様に従う部分をあらわします。「身体」は黒いマントを着た男の人です。美しい女の人の姿でこの世の楽しみをあらわしている「快楽」や、将軍のかっこうで世の中を征服する力をあらわしている「世界」が、しょっちゅう「身体」を誘惑します。「身体」はその度にふらふらして、「快楽」や「世界」の方へ行きたくなりますが、「魂」にとめられます。「魂」がひざまずいて、「この世をつくったのはどなたですか」ときくと、聖堂の内側の高いバルコニーから天使が「主なる神」と答えます。

 この聖堂は、天井が50メートルもあるかと思うほど高くて、上の方にはり出したバルコニーがあり、そこにコーラスがいて歌うので、まるで声が空から降ってくるようです。オーケストラは柱のかげで見えませんでしたが、一つ一つの音がひびくので、全体がすばらしく大きいひびきになります。17世紀のはじめには、いくつものメロディーを組み合わせて音楽を作るやり方のかわりに、一つのメロディーに音のかたまりをつけるやり方が使われるようになりました。それが、今、皆がひいたり聴いたりする音楽の大部分の、和声の音楽のもとになったのですが、こういう石の建物の中のすばらしい響きをきいていると、ここから「和声」が生まれたということがはっきりわかります。

 剣を持った「守護の天使」(これは、人間が生まれた時、ひとりひとりに神様がつけてくださる天使です)が命令すると、華やかに着飾った「快楽」と「世界」にはいつのまにかがいこつのお面がかぶせられ、舞台中央のアーチの中の地獄へつれていかれてしまいます。一方で「魂」と「身体」は「守護の天使」に守られて、天にのぼっていきます。

 この『霊魂と肉体の劇』も、教会が皇帝や王様よりずっと強い力を持っていた中世のおしばいのやり方をとりいれているので、この間の『イェーダーマン』に似たところがあります。「身体」の役をうけもった歌い手は、具合がわるかったそうで、あまりうまくありませんでした。一番すばらしかったのは踊りで、劇のはじめの方で昔風の衣裳をつけたおおぜいの人がゆるやかな身ぶりで踊った時には、本当に息がつまるようでした。お百姓や商人、兵隊、尼さん、娘さん、赤ちゃんを抱いたお母さんなどがずらりと並び、その後ろに、それぞれまるで同じ姿をして、顔だけがいこつのお面をつけた人がいて、ひと組になって踊るのです。このひと組で、人のいのちと死をあらわしているのです。

 こうしてヨーロッパの古い都市で古い聖堂を見たり、こういうお芝居を見たりしていると、キリスト教の力が日本では考えられないほど強いことを、しみじみ感じます。キリスト教はもともとずっと東の方ではじまったのですが、なぜそれがヨーロッパ大陸でこのように大きくなったか、いつかひまのある時に勉強してみたいと思います。(つづく)
ヴェネチア:ホテル・バウアー 8/7夜

ミッターシルへ
A.ウェーベルンが眠る教会墓地

8月5日の朝には、前にエハガキで書いたように、朝4時半に起きてミッターシルにむかいました。オーストリアの汽車が古くてがたがたなのは驚くほどです。貨物はたいてい蒸気機関車がひっぱっています。5時42分になると、汽車はピーともいわずに黙って走り出しました。1時間程乗って、ビショップスホーフェンでディーゼルカーに乗りかえました。「グロース・グロックナー」という3797メートルの山の名前をとった急行です。

この急行は8時5分にツェル・アム・ゼーにつく予定で、パパとママは、そこで8時10分発のほかの電車に乗りかえるつもりでした。「グロース・グロックナー」はビショップスホーフェンを9分も遅れて出たので、心配してしまいました。なぜかというと、ツェル・アム・ゼーからミッターシルへ行く電車は、8時10分にいってしまうと、もう午後1時すぎまでないからです。

急行はザルツァッハ河に沿って、山の間をのぼっていきます。けわしい崖の上に、古いお城がみえたりしました。ツェル・アム・ゼーはツェラー湖という大きい湖のそばの町で、この近くの人たちは皆ここへ泳ぎに来るそうです。ツェル・アム・ゼーに着いたら、むこうの方にちっぽけな電車がまだ荷物を積んでいる最中だったので、ヤレヤレと思いました。2輛しかなくて、線路の巾はたった76センチの、おもちゃみたいな電車です。

ガタゴトゆれながら、やはりザルツァッハ河に沿って、谷の奥へはいっていきました。野原には白や黄色の花が一面に咲いていて、しばらくすると雪をかぶったグロース・グロックナーの峰がそそり立ち、すばらしい眺めでした。ミッターシルは、このあたりではかなり大きい町で、近くの田舎の人たちが遊びに来るところらしいです。途中の村の駅で、お父さん、お母さん、小学校4年生くらいの男の子、妹という家族づれが乗ってきて、駅にいた知りあいの人が、「どちらまで」ときくと、嬉しそうに、「ミッターシルまで」と答えていました。

ミッターシルについたのは9時すぎで、朝から何も食べてなかったので、おなかがすいて死にそうでした。駅前の小さい食堂兼売店に入って、バタパンと紅茶をたのみました。こんな田舎だと英語は全然通じないので、なんとかドイツ語で話さなければなりません。エハガキを買い、駅に荷物をあずけて、駅長さんにウェーベルンのお墓がどこにあるかききました。駅長さんはよく知りませんでしたが、教会の墓地の中にあるにちがいないので、とにかくそちらの方へ歩いていきました。

こういう小さい町では教会は町のまん中にあり、塔がそびえているのですぐわかります。教会の裏の墓地で、お墓のお掃除をしているおじさんにきいたら、親切にウェーベルンのお墓の前へつれていってくれました。 (つづく)
ヴェネチア:ホテル・バウアー 8/8朝

墓地のつづき
ウェーベルンが射たれた家
にわか雨

 黒い鉄の十字架の中心に、アントン・ウェーベルンと奥さんのミーナ・ウェーベルンの名前を刻んだ鉄板がはめてあるだけの、簡単なお墓でしたが、十字架の足もとには、赤や白や紫の花が美しく咲きみだれていて、アルプスの高い山に咲くエーデスヴァイスの花もその中にありました。

 写真を何枚かとって駅の方へ帰る途中、記念にコップと灰皿を買いました。墓守のおじいさんに教わった通り、線路に沿った街道を少し行くと、大きい木の下の写真屋の壁に矢印があって、「ウェーベルン記念の場所」と書いてありました。そこで新しいフィルムを買っていれかえ、矢印に沿ってまがると、もうすぐそこがウェーベルンの殺された家でした。玄関のわきに、「ウェーベルンが1945年にここで死んだ」ときざんだ銅の板がかかっていて、ドアをはさんで反対側には、「婦人服お仕立」という看板がかけてあります。今は仕立屋さんがここに住んでいるのです。パパが中に入って写真をとらせてくださいとたのんだら、女の人がにこにこしながら出て来て、「どうぞ」といいました。

 ウェーベルンはヴィーンの空襲がはげしくなった時、書きかけの五線紙をリュックサックにつめて、この町に疎開してきました。ウェーベルンの娘夫婦がこの街道沿いの家に住んでいて、ウェーベルンと奥さんはもっと山の方の山小屋みたいな家に住んでいたそうです。1945年の9月15日、もう戦争は終わってアメリカ兵がこの町にも入ってきていたのですが、ウェーベルンは娘の家に夕御飯を食べに来て、そのあと久しぶりで手に入った葉巻煙草をこの扉口で吸っているとき、アメリカ兵にピストルで射たれて死んだのでした。

 ウェーベルンはシェーンベルクのお弟子で、いつかパパとママと加納さんと朝妻さんでクワルテットの曲を練習したからおぼえているでしょう。あなたたちは「ゲンダイオンガク」だといって馬鹿にするけれど、今すぐれた仕事をしている作曲家の中で、ウェーベルンの影響を受けていない人はほとんど無いといっていいくらいです。短い曲が多くて、ほんのちょっぴりの音で曲ができていますが、ウェーベルンは、ほかの作曲家なら何ページ分もの音楽にするような中身を、一つの音、一つの音にギュッとつめこんでいるのです。

 ママはずいぶん前に、ミッターシルの教会の神父さまが書いた「ミッターシルのウェーベルン」という文章を読みました。それにはウェーベルンが、山の斜面の家でバッハやシューベルトやモーツァルトを聴き、野原や森を歩きまわって、植物を何時間も観察したと書いてありました。ほんとうに野原には見渡すかぎり色とりどりの花が咲いていて、山には深緑の木がしげり、なだらかな丘のむこうに高い山がそびえていて、夢のように美しい風景です。家々は急勾配の赤い屋根と白い壁で、庭には花壇と野菜畑があります。

 それからパパとママは山の斜面の急な細道をよじのぼって、ウェーベルンがよく散歩した山の上のお城に行ってみました。山の上からミッターシルの町が一目で見下ろせて、おなかのすいたのも、足の痛いのも忘れるような景色でした。花をつみながら山を降りてくると、突然むこうの山の方から雲が流れて来て、大粒の雨がバラバラ降り出しました。駅前の売店に駆けこんだ時はもうそうとうに降っていて、それから20分ばかり稲妻が光り、どしゃぶりの大雨になりました。朝と同じにバタパンと紅茶を食べ、つんだ花を時刻表にはさんだりしているうちに、さっと雲が行ってしまい、嘘のように晴れあがりました。花の中にはいくらか高山植物みたいなのもあって、その水気の少ない花びらの色や、すみずみまで無駄のない形が、ウェーベルンの音楽とそっくりです。

ミッターシルとまわりの山々
<ミッターシルのしゃくなげ>
詩と曲アルゥール・エンスマン
ミッターシルの城

 ミッターシルを1時10分に出る電車に乗らないと、夕方までにヴィーンに着けません。もっとここにいたかったけれど、時間が来たので、立ちあがってお勘定を払いました。食堂にはこの土地の人が3人ばかりいてビールを飲んでいましたが。パパとママが出て行く時に皆口々に「さようなら」といいました。売店のお店番をしている女の人も、墓守のおじいさんも、ふとった駅長さんも、この町であった人たちは、見なれない日本人を特別扱いすることもないし、それでいて親しい気持を持ってくれているようでした。

 無事に1時10分の電車に乗って、ツェル・アム・ゼーへ帰って来ました。ホームの売店でハムをはさんだ丸パンと緑色のぶどうを一房買って、ヴィーン行の急行列車を待っていると、湖へ泳ぎに来ていたのでしょう、あなたたちと同じ位の子供が何人もお父さんやお母さんとホームに入って来ました。感心なことに、皆自分の身体くらいあるリュックサックをかついでいたり、大きいかばんをひきずりながら歩いているのです。男1人と女2人の3人兄妹がいましたが、あなた達と同じように年がくっついているらしく、背の高さもあまり違いませんでした。お母さんはママの3倍くらいの太さ、お父さんはパパの半分くらいの細さです。ちょうどりりくらいの末の女の子がお父さんにおねだりして5シリングもらい、自動販売機をガチャンとやって、怪獣の形のケースに入ったあめを出しました。怪獣の羽は開いたり閉じたりするようになっていて、3人がそれで仲良く遊んでいると、そのうちお母さんが、「ちょっとかしてごらん」といって、自分も嬉しそうに怪獣の羽根をしめたりひろげたりしていました。町や駅で見かける子供たちは、馬鹿騒ぎすることもなく、お行儀がよくてしかも楽しそうにしています。

 急行列車は20分位遅れて、2時45分にやっと来ました。朝はたくさん乗りかえがあったけれど、今度はまっすぐヴィーンに行くので安心です。(つづく)
ヴェネチア〜フィレンツェの汽車の中 8/8午後
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